2020年10月09日

新型コロナ危機④ 現実を直視していない玉城知事の危うさ

 正直なところ、こんな人物に県政の舵取り役を任せていて本当に大丈夫なのだろうか、という不安を抱かざるを得ない。

 今月2日の記者会見で、玉城デニー知事は、県内での新型コロナ・ウイルスの感染状況を踏まえ、県が独自に制定した「注意報」を発表するとともに、県独自の警戒レベルについても、これまでの「第3段階(感染流行期)」を維持することを公表した。

 上記の記者会見について報じた沖縄タイムス紙の記事(10月3日付)によると、玉城知事は、県内での感染状況について、「新たな感染拡大につながらないよう、注意が必要な状況だ」とした上で、「緊急事態宣言を出して大きな山は乗り越えたが、依然として感染の火種が各地でくすぶっている」という認識を述べたという。

 知事の発言部分だけを拾い読みしていると、まだ注意は必要だが、切迫した危機的な状況ではないという印象を抱きかねないが、事実はそうではない。記事全体をきちんと読んでみると、知事の発言とは裏腹に、現状は楽観を許さないものであることが分かる。

 沖縄タイムス紙は、知事の発言を報じる記事と隣り合わせに「25人感染 7日連続2桁」という記事を掲載して、県内での感染状況を具体的に報じている。
 それによると、知事会見の前日に当たる1日には、県内で新たに感染が確認されたのは25人で、その中にはカラオケなどに行った大学生らの複数人の感染確認例のように、クラスターが発生した可能性がある事例も含まれている。25人中、推定される感染経路が判明しているのは14人で、11人は不明。しかも、感染経路が判明しているケースの多くは、家庭内感染だという。つまり、家庭内感染を除くと、ほとんどのケースで、いつ、どこで、誰から感染したのかが分からないのである。
 直近の1週間の新規感染者数は135人(平均すると1日に約19人の感染者が発生したことになる)で、人口10万人当たりの感染者数は9.27人(全国で2番目)である(※ その後、沖縄県は東京都を抜いて全国最多となった)。

 どう考えても、現在の県内の感染状況は「感染の火種が各地でくすぶっている」という表現ですませられるようなものではない。

 知事の表現方法に倣っていえば、現下の状況は、「火種が各地でくすぶっている」という生やさしいものではなく、「毎日、同時多発的に県内各地で火災が起きている」というぐらいの表現がふさわしい。

 常識的な感覚からすれば、「火種がくすぶっている状態」とは、たとえば、1日に確認される感染者が多くても3、4人程度にとどまっていて、しかも、感染者がゼロという日が続いている合間に、感染者が確認される日がポツリポツリとあるという状態であろう。
 感染者ゼロという日がなく、連日2桁の感染者が確認されている状況を指して、火種がくすぶっているレベルだなどと言い張るのは、よほど言葉を知らないか、言語感覚が狂っているかのどちらかだと思われても仕方があるまい。

 さらに呆れ返ってしまうほかないのは、知事の「大きな山は乗り越えた」という物言いである。

 全く冗談ではない。「山を乗り越えた」というのは、感染者数がピークを切った後に明らかな減少傾向をたどりはじめた時に用いることができるフレーズである。しかし、現状はどうかといえば、連日、20人前後の感染者数が横ばいで推移している有様である。感染者数は決して減少傾向を示してはいないのだ。

 これでどうして「山を乗り越えた」などという言葉を吐けるのだろうか。やはり、この人の言語感覚はどこか狂っているとしか思えない。

 最大限に好意的に解釈するならば、玉城知事のアタマの中では、1日に100人を超える感染者が確認された時のことが念頭にあり、いまはそのような状態にはなっていないという意味で、「大きな山は乗り越えた」といったのかとも思われる。
 しかし、仮にそうだったとしても、現状に照らしてこのような表現が不適切だという点はなんら変わらない。知事がこのようなミスリーディングな発言をすることによって、感染は沈静化しつつあるという誤った印象を県民に与えかねないという点からも、為政者として軽率に過ぎるという批判をまぬがれることはできないであろう。

 なんにせよ、一方では、県当局が、現状ではまだ警戒を継続すべきというメッセージ(2度目の注意報の発令、警戒レベルの「第3段階(感染流行期)」の据え置き)を発信しているにもかかわらず、他方では、その県当局を率いている知事が、それとは正反対のメッセージ(“現状は感染の火種が各地でくすぶっている状態で、大きな山は乗り越えた”)を発信しているというのは、異様な事態というほかはない。

 もともとは文化人類学で用いられる概念だが、このように発信者が相互に矛盾したメッセージを発することで、メッセージの受信者ががんじがらめの状態に陥ってしまうことを、ダブルバインドという。

 ジャーナリストの外岡秀俊氏は、福島第1原発事故を検証した著書の中で、事故発生当初、当時の民主党政権が国民に向けて発したメッセージが、典型的なダブルバインドだったことを指摘して次のように書いている。

「この『ダブルバインド』の言辞は、放射能にかかわるさまざまな政府発表に共通している。『異常な量だが、今のところ、ただちに健康には影響がない』という表現は、『異常』という言葉と、『健康には影響がない』という言葉が正反対のベクトルを示し、しかも、明確な責任を伴う指示がない。人々は、(略)困惑しつつ立ちすくむことしかできない」(朝日新書『震災と原発 国家の過ち』より)

 放射線量が「異常な量」ということは、即刻避難すべき危険な状況だという意味なのか、それとも、「ただちに健康には影響がない」ということは、とりあえずは避難しなくても大丈夫という意味なのか。当時の民主党政権は、人々がどうすればよいのかについて明確な指示を出さず、あたかも、青信号と赤信号を同時に点灯させるかのような矛盾したメッセージを送り続けたのである。人々を的確にリードすべき政府が、いたずらに人々を混乱させるような情報発信をしていたのだ。

 皮肉を込めていわせてもらえば、原発事故当時、民主党所属の国会議員だった玉城知事は、いまこそ、国民をダブルバインドの状態に陥れた民主党政権の失敗を思い起こすべきではないか。そして、県民の現実認識を歪め、いたずらに混乱させるような自らの言動については直ちに改め、新型コロナ・ウイルスの感染終息に向けて、的確に県民をリードすることを心がけるべきではないだろうか。

 そもそも、玉城知事が、県民をダブルバインドの状態に陥れるような言動をはじめたのは、昨日今日の話ではない。私の記憶に間違いがなければ、知事の態度がおかしくなりはじめたのは、8月16日に期限を迎えた県独自の緊急事態宣言を延長するか否かが問題となった辺りからである。

 細かい経緯は省くが、この頃から、玉城知事は、緊急事態宣言解除に向けたムードを醸成すべく、しきりに楽観的な発言を繰り返すようになる。緊急事態宣言の解除後ともなると、その様は知事の政治的暴走の観を呈しはじめ、緊急事態宣言そのものを廃止して、「注意報」という曖昧なものに差し替えたり、政府の推進する「GoTOキャンペーン」に相乗りして、観光客の来県アピールを発出するなど、その言動はどんどん現実からかけ離れたものになっていった。

 こうした知事の暴走の背景にあったのが、県内の景気後退が知事の支持基盤をも揺るがしはじめたこと(特に、呉屋守将・金秀グループ会長の後援会長辞任と離反)であることは間違いないだろう。つまり、身もフタもない言い方になるが、玉城知事は、県内での感染者数を減らすために尽力することよりも、自身の政治的保身のために県内経済の再起動の方を優先したということである。

 しかし、小学生でも分かる話だが、「緊急事態宣言」を「注意報」という表現に言い換えようが、知事自身が「大きな山は乗り越えた」と吹聴してまわろうが、そんなことで目の前の現実が変わるはずはないのである。いくら言葉で取り繕おうとしたところで、感染者の数が減る訳でもなく、人口10万人当たりの感染者の数が全国で最多だという現実もそのままなのである。

 玉城知事が1日も早く経済活動を本格的に再起動させたいと考えているのならば、知事自身がやるべきことははっきりしている。県内での感染拡大を防止・抑制するために有効な策を打つこと(たとえば、感染者の行動履歴の公表といった適切な情報提供など)と、急激な感染拡大が起きた場合でも、感染者に対して迅速かつ適切な治療や隔離処置ができる体制を早急に整えることだ。そして、これらの施策を通じて県内での感染者数を減少に転じさせることである。これもまた、小学生でも分かる話である。

 しかるに、玉城知事がやっていることといえば、為政者としてやるべきことを後回しにして、やれ「現状は感染の火種が各地でくすぶっている状態」だの、「大きな山は乗り越えた」だのと、現実からは程遠い楽観論を振りまいているだけなのだ。要するに言葉遊びに精を出しているだけなのである。ことは人命にかかわる重大な問題であるにもかかわらず、こんな無責任な態度が許されていいのだろうか。

 こんな無能で無責任な知事には、早くやめてもらったほうがいいのではないかという気がしてくる。


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