2021年03月20日
デタラメを撒き散らす琉球新報投書欄のお粗末
琉球新報紙の論壇欄には、しばしば、信じられないほどにバカげた文章が掲載されていることは、これまで何度か指摘してきた。そして、そうした愚劣な文章が掲載されてしまうことの背景として、論壇欄を担当している記者のレベルが相当に低いのだろうという点についても触れてきた。
しかし、ひどい文章が掲載されているのは同紙の論壇欄ばかりではない。投書欄にも、びっくりするような低レベルな文章が掲載されている。
たとえば、北中城村の松本太郎氏が投稿した「孔子廟は文化遺産」(3月3日掲載)という一文には、ほとほと呆れ果てる思いがした。
松本氏の投書の内容は、那覇市が久米至聖廟(孔子廟)に市有地を無償で使用させているのは政教分離原則に違反しているとした最高裁判決に違和感を覚える、というものなのだが、その理由のひとつとして、松本氏は次のように書いている。
「そもそも政教分離の原則は、政府・国家とその機関である官公庁が特定の宗教と癒着することを禁じたもので、国の機関でもない地方自治体をその対象とするのはいささか恣意的にすぎるのではないか」
これはかなりひどいデタラメというほかはない。
つまり、松本氏にいわせると、政教分離の原則は、「政府・国家とその機関である官公庁」には適用されても、「国の機関でもない地方自治体」には適用されないはずだ、というのである。
全く冗談ではない。この人は一体何をどう勘違いして、こんなバカげたことをいっているのだろうか。
憲法が定める政教分離の原則は、国の機関に適用されるものであることはもちろんだが、地方自治体にも適用されるのである。
試しになんでもよいから憲法の概説書に目を通してみればよい。
たいていの憲法の概説書には、政教分離違反が争点となった裁判例が紹介されているものだが、そうした判例として決まって取り上げられているのが、津地鎮祭訴訟と愛媛玉串料訴訟の2つである。
前者は、津市役所が市の体育館の起工式に公金を支出して神道式の地鎮祭を行ったことが、後者は、愛媛県知事が靖国神社に公費から玉串料を支出したことが、それぞれ政教分離違反ではないかと訴えられたものだ。
当然のことながら、津市も愛媛県も地方公共団体であり、国の機関である官公庁ではない。松本氏が唱える珍妙な主張が正しければ、これらの裁判はそもそも訴訟として成立しなかったはずなのである。
そもそも、憲法が政教分離の原則を掲げているのはなぜかというと、公権力が特定の宗教と癒着することで、個人の信教の自由が脅かされることを防ぐためである。そうなると、地方自治体も、国の機関と同じく公権力の一翼を担っている存在である以上、特定の宗教と癒着していいはずがないことは、子供でも分かる道理ではないか。
松本氏のように、政教分離原則は地方自治体には適用されないなどという突拍子もないことをいいだす人は、失礼ながら、政教分離原則の何たるかを全く理解せずにデタラメを口にしているのである。
それにしても、松本氏にも開いた口がふさがらないが、それ以上に呆れてしまうのは琉球新報の無責任な態度である。しがない一地方紙とはいえ、このようなひどいデタラメを含んだ文章を堂々と掲載してしまうというのは一体どういうつもりなのだろうか。本当に恥ずかしくないのだろうか。
新聞の投書欄には、誰でも自由な意見を表明できる場という性格があるが、それは決して、素人という立場に甘えて、根拠のないウソやデタラメをいくらでも撒き散らしてもよいという意味ではない。誤った言論によって判断をミスリードされてしまう読者が出てくる可能性もある以上、投稿文を書く人にも、それを掲載する新聞社にも、最低限の内容の正確さを担保する責任がともなうはずではないか。
しかし、はっきりいって、琉球新報の投書欄担当記者にそのような自覚があるとは到底思えない(それがあれば、そもそも松本氏の投書が掲載されるはずがない)。
たかが投書にそれほど目くじらを立てなくてもよいではないかという人もあるかもしれない。しかし、デタラメを含んだ投書を平気で掲載してしまうような新聞は、デタラメな記事もやはり平気で掲載してしまうのではないだろうか。
こうした読者の信頼を裏切るような紙面づくりの実態を見せつけられると、もう琉球新報の購読は止めようかという気がしてくる。
Posted by HM at
18:38
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