2021年10月30日
琉球新報さん、ドフトエスキーって誰ですか?
これは本当に恥ずかしい話である。
10月27日付の琉球新報紙は、文化面に「大城立裕氏追悼シンポジウム詳報 (上)基調講演」という記事を掲載している。
記事の内容は、沖縄の文学界を牽引してきた作家・大城立裕氏の没後1年を目前に控えて開催された大城氏の追悼シンポジウムについて、作家の又吉栄喜さん、前名桜大学学長の山里勝己さん、沖縄国際大学准教授の村上陽子さんら3人による、大城文学を考察した基調講演を伝えるものである。
この記事を読んだ人はみんな、びっくりして目を剝くような思いがしたに違いない。それというのも、記事で最初に紹介されている又吉栄喜さんの講演の記述中に、いきなり、とんでもない間違いが出てくるからだ。
又吉さんは冒頭、作家としての大城立裕をどう論じるべきか頭を悩ませたが、大城作品と別の作家の作品を対比することで、自分なりの文学観などを示せるのでないかと思う、と講演の口火を切っているのだが、琉球新報の記事によると、それに続けて又吉さんが次のように語ったことになっている。
「トルストイはシェークスピアを批判し、ドフトエスキーはチェーホフをけなしたという話もあるが、小説の価値は多種多様だ」
この「ドフトエスキー」とは、いうまでもなく、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』などの作品で知られるロシアの作家、ドストエフスキーのことだろう。それがなぜか、ドストエフスキーの最初の「ス」の字が「フ」に変身し、エフスキーの「フ」の字が抜け落ちて、「ドフトエスキー」という腑抜けな名前になっちまっているのだ。
これではまさしく、「ギョエテとはオレのことかとゲーテ問い」を地で行くようなものだが、又吉栄喜さんがこんなバカな言い間違いをするはずがないから、これはどう考えても、粗忽な琉球新報の記者が誤って書いたことに違いあるまい。
しかしまあ、いくらなんでも、これはあまりにもひどすぎるのではないだろうか。よりにもよって文化面で、しかも、よりにもよってドストエフスキーの名前を誤記してしまうとは、新聞として、これ以上はないほどに恥ずかしいことではないか。
それにしても、どうしてこんな間抜けな間違いが起きてしまったのだろうか。
まさか、この記事を書いた記者が、ドストエフスキーのことを全く知らなかったなどということはないだろう(いくらなんでも、そう信じたい)から、単純なキーボードの打ち損じによる誤記入なのだろう。
しかし、そうなると今度は次のような疑問が湧いてくる。
記事を執筆した記者本人はもとより、文化面を担当するデスク、校閲部の担当記者、印刷前の最終チェックをする担当者など、少なくとも、3、4人の人間がこの原稿に目を通していると思われるのだが、その誰もこれほどひどい記入ミスに気がつかなかったのだろうか。
これらのうちの1人でもいいから、「ドフトエスキー」という珍妙な表記に気がついていれば、それがそのまま、堂々と紙面に掲載されてしまうなどということは避けられたはずである。
つまり、琉球新報では、まともな記事内容のチェック機能がまるで働いていない、ということだ。
このブログでも、琉球新報の記事にはひどいデタラメがまま見られることは、度々指摘してきたが、とうとう、こんな低レベルな間違いをやらかしてしまうところまで、琉球新報の劣化は進んでしまったということなのだろう。病膏肓に入るとはこのことだ。
こんなことを長々とグチっていると、そんなことは単なる不注意に属することではないか、重要な点で誤りがあるという訳ではないのだから、大したことではあるまい、という人もいるだろう。
しかし、こういう基本的なところで実につまらない間違いをしでかしている文章というものは、はっきりいって、その先をさらに読み進めようという意欲がなくなるものである。そして、書き手のレベルにも信頼が置けなくなるものである。
たとえば、大高未貴という無名の右派系女性ライターが書いた『強欲チャンプル 沖縄の真実』という本がある。沖縄の人なら誰でもすぐに気がつくことだが、タイトルにある「チャンプル」とは、チャンプルーのことである。わたしなどはこれだけでもうダメで、チャンプルーのこともちゃんと表記できないような人間が、聞きかじりの粗雑な知識だけを頼りに、沖縄のことをいい加減に書き飛ばしているのだろうと、ウンザリした気分になってしまうのだ。もちろん、そんな本を手に取ろうなどという気持ちにもなるはずがない。
また、以前、ネット上で、当時の翁長知事の名前にわざわざ「おきな」と間違った振り仮名をふっている書き込みを目にしたこともある。こちらの書き込みは、翁長知事の主張に賛同し、支持する内容のものだったが、その執筆者が熱っぽく翁長知事を誉めそやせば誉めそやすほど、それよりも、沖縄について知ったふうな口を利く前に、まずは知事の名前を正しく読めるようになるのが先だろ、と白々とする思いが募ったものである。
思い出しついでにさらに書くと、もう6年ほど前の話だが、QAB(琉球朝日放送)についても、ニュース番組の中で放送された沖縄戦に関連する特集で、映像に付されたナレーションが、終戦直後に外務大臣に就任した重光葵の名前を、何度も「しげみつ・あおい」と間違えていたことに、がっくりと肩が落ちる思いがした(正しくは「しげみつ・まもる」)。
重光葵は、戦前・戦後を通じて何度も外務大臣に就任した著名な人物で、昭和史をきちんと学んでいる人間であれば、名前を読み間違えることはまずない。それにそもそも、人名辞典などにちゃんと当たっていたら、こんなバカみたいな言い間違いは絶対にするはずがないのである。
つまり、このナレーションの原稿を書いた記者も、それを読んだアナウンサーも、昭和史について全く無知だということ、そして、キー・パーソンの名前の読み方さえもろくに調べていないということが、はしなくも暴露されてしまったのである。
前回も述べたことだが、沖縄のメディアには、一方では、呆れ返るぐらいに基本的な事実関係をちゃらんぽらんに扱いながら、他方では、妙に肩をいからせて読者や視聴者に説教がましい態度を取るという悪癖がある。
つまり、政治的なキャンペーンにばかり地道をあげているものだから、報道メディアの命綱であるはずの正確な事実の報道が疎かになっているのである。
しかし、いやしくも報道メディアを名乗るものが、そんな本末転倒な在り様を続けていていいはずがない。正確な事実の報道を蔑ろにするようなものには、そもそも報道メディアを名乗る資格がない。
著名な外相の名前を平気で言い間違えるようなテレビ局が、さも訳知り顔で、沖縄戦の記憶を風化させず、歴史の教訓を正しく引き継いでいかなければなりませんなどと、説教がましい口上を述べたり、ドストエフスキーのことを「ドフトエスキー」などと誤記してしまうような新聞が、いっぱしのクオリティ・ペーパーを気取ったりするのは、もう本当にやめてもらいたいものである。そういう態度をとるのは、せめて、人の名前を正しく読めるようになってから、正しく書けるようになってからにしてもらいたいものである。
何度でも繰り返すが、報道メディアにとっての命綱は事実を正確に伝えることにある。それを忘れたメディアには明日はない。
Posted by HM at 18:39│Comments(0)