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Posted by TI-DA at

2023年03月15日

大江健三郎氏を冒涜したRBCの追悼ニュース


 RBCのニュース番組で放送された、作家・大江健三郎氏の追悼報道について、そのあまりにもデタラメな報道内容に腹が立った。いくらなんでも失礼ではないかと呆れる思いがした。

 この追悼報道のタイトルは、「『ノーベル賞作家』大江健三郎さん 言葉で戦い続けた生涯と沖縄への思い」(3月14日放送)というものである。

 どういうところがデタラメなのか。たとえば、次のような箇所である。

 レポートの冒頭で、今月3日に亡くなった大江氏について、『沖縄ノート』などの創作活動を通じて沖縄を見つめてきたと紹介した上で、<1992年に放送された、RBCの番組『大江健三郎沖縄を語る』の中で、〔大江氏は〕沖縄への思いをこう表現していました>というナレーションに続いて、以下のような大江健三郎氏の発言が流される。

大江氏「20年前(1972年)に視点を置きまして、自分が20年前の沖縄全体から何を読み取ろうとしたのかもう1回見てみたい。一旦小説家になって、30歳くらいになっている人間が、どのように自分の小説を作り直すか、そういうことを考えてるときに、沖縄で経験したことが有用・大切だったという風に思うわけです」

 一体どういうつもりなのだろうかと当惑するほかはないのだが、この引用部分のどこにも、大江氏の「沖縄への思い」は語られていない。この引用部分のどこをどう叩いても、大江氏の「沖縄への思い」を読み取ることはできない。

 文脈から推測するに、おそらく大江氏は、この引用部分の前か後かで、20年前に自分自身が沖縄全体から何を読み取ろうとしたのかを具体的に振り返りつつ、当時、小説家として分岐点に立っていた自分にとって、沖縄で経験したことがその後どれだけ大きな意味を持つようになったのかを語っているのだろう。

 その肝心な部分を取り上げず、まるで見当違いな他の発言部分を引っ張ってきて、「〔大江氏は〕沖縄への思いをこう表現していました」などと言い募るのは、一体どういう料簡なのだろうか。

 こうしたメチャクチャな発言の引用ぶりからも一目瞭然だが、このレポートをまとめたRBCの番組スタッフは、明らかに手抜きをしている。

 局内に保存されていた大江氏の講演の動画のなかから、大江氏が発した言葉の意味を深く吟味することもなく、なにかもっともらしいことを言っているように感じられた部分を、実に無雑作に切り取って並べているだけである。

 それが証拠に、このレポートの末尾では、ひどい誤報まで犯している。

 レポートの締め括りで、<沖縄の戦後の姿を通して、日本の民主主義のあり方を問うた大江さん。60年あまり、言葉で戦い続けた生涯でした>というナレーションに続いて、大江氏が次のように語っている場面が、何の注釈もなしに放映されてレポートは終わる。

大江さん「地球上で帝国主義が終わりを告げるとき、沖縄人は苦世から解放されて甘世を楽しみ、十分にその個性を生かして世界の文化に貢献することができる」

 このレポートを見ていた視聴者のうち、少なからぬ人々が、この言葉を大江健三郎氏本人のものだと受け取ったのではないだろうか。

 しかし、何を隠そう、この言葉は大江氏のオリジナルのものではない。この言葉は、沖縄学の父として知られる伊波普猷のものなのである。

 より正確にいうと、この一文は、伊波普猷の晩年の著作である『沖縄歴史物語』の掉尾を飾った一節で、伊波が書き残した文章のなかでもよく知られたものだ。

 ところが、RBCのレポートでは、あたかもこの言葉が大江氏自身のものであるかのように扱われているのだ。

 開いた口がふさがらないとはこのことである。よくもこれほどまでにひどいデタラメを放送できるものである。

 RBCのデタラメ編集があまりにもひどいので、どういう流れで伊波普猷に言及したのかはさっぱり分からないが、おそらく大江氏は、伊波普猷の言葉を引用しながら、沖縄に対する思いを語ったのだろう。

 また、大江氏の性格に鑑みても、伊波の言葉を引くに当たって、大江氏がそのことを断りもなしに口にしたということは到底考えられない。必ずや、これは伊波普猷の書いた一文だが、と断りを入れた上で紹介したに違いあるまい。

 当然のことながら、大江氏には大江氏なりの思いや考えがあって、伊波普猷の言葉を引用したはずである。そして、そうした思いのなかには伊波に対する少なからぬ敬意や共感があっただろうということは、想像に難くない。

 だとすれば、自らが引いた伊波普猷の言葉が、あたかも大江氏自身の言葉であるかのように誤って報じられてしまうなどということは、大江氏にとっては、これ以上はないほどに不本意なことであろう。

 さらにいえば、それはただ単に大江氏自身の意に反するというだけにとどまらず、大江氏の「沖縄への思い」を土足で踏みつけるに等しい無神経な態度であるというほかはない。

 このようなデタラメぶりから読み取れるのは、このレポートをまとめた人物は、大江健三郎、伊波普猷の両人について全く無知なのだろうということである。おそらくは、1度も両人の著書を手に取ったこともないのではなかろうか。

 そういう人間がさも分かったような顔をして、大江氏の偉大さを誉めそやす言辞を並べ立てるというのは、紛れもなく、故人に対する冒涜以外の何物でもなかろう。白々しさを通り越して怒りすら覚えるほどである。

 このブログで度々指摘してきたことだが、沖縄のメディアには、事実を正確に報道することへの意識が薄く、自分たちの政治的主張に都合のいいように、恣意的に事実を切り取るという態度が横行している。

 そういう人たちにとっては、大江健三郎氏のような存在さえもが、自らの政治的なキャンペーンにとって好都合な素材でしかないのだろう。

 こういう人たちにとっては、大江氏がどのような人生体験と思考、思念の末に沖縄に思いを寄せるようになったのかなどということは、本当はどうでもよいのだろう。大江文学において沖縄経験がどのように昇華されているのかなどということは、本当はどうでもよいのだろう。

 こういう人たちにとっては、ノーベル文学賞作家という大江氏の肩書の権威だけが欲しいのではないだろうか。ノーベル賞作家が、沖縄の民意に寄り添い、辺野古新基地建設に反対しているという事実だけが欲しいのではないだろうか。

 そうでなければ、これほどまでにいい加減な報道姿勢になるはずがあるまい。

 沖縄のメディアは根深いところで腐敗しているのではないだろうか。

  
Posted by HM at 19:29Comments(0)