2018年08月29日

アジビラ・ライターに身を落とした芥川賞作家


 沖縄タイムス紙に掲載(8月15日)された作家の目取真俊氏の一文を読んで、無性に腹が立った。
 その一文は、「国強硬 知事追い詰める」と題されたもので、翁長雄志知事の死去を受けて書かれたものだが、腹が立ったというのは文中の次の一節である。

「政府・自民党にとって翁長知事は『裏切り者』であり、それだけに激しい攻撃が加えられた。翁長知事を支える『オール沖縄』の保守・中間層に対する切り崩しは熾烈を極めた。那覇市議会の新風会の解体や安慶田光男副知事の辞任、仲里利信衆議院議員の落選に加えて、支援企業の『オール沖縄』脱退もあった」

 こんなことを、目取真氏は本気で信じているのだろうか。

 デタラメをいうにもほどというものがある。

 新風会の分裂騒動とは、要するに政治家同士のケチなポスト争いに過ぎない。市議会議長のイスをめぐって、会派がたちまち仲間割れしてしまったというだけの話ではないか。

 あのバカげた騒ぎのどこに政府・自民党による切り崩しがあったというのだろうか。そんなものはどこにもありはしない。

 安慶田元副知事の辞任も、そもそも、副知事の地位を用いて教職員人事に不当介入しようとしたという、公人としての自覚を欠いていたとしか思えない安慶田氏の軽率な行為に端を発するものである。切り崩しもヘッタクレもあったものではない。

 仲里議員の落選についてはどうかといえば、当初こそ、仲里議員は、保革を超えた政治運動体としてのオール沖縄のシンボルとして盛んに持ち上げられたものだったが、その後、折々の政治的局面で仲里氏が存在感を示すことは一度もなかった。
 仲里氏の議員時代の活動の中で思い起こされることといえば、衆院選後の首班指名で、こともあろうに、自分の名前を書いて投票するというバカげたことをしでかしたことぐらいである。

 これでは、いくら、マスコミがオール沖縄のシンボルだと持ち上げたところで、国会議員としての資質という点で疑問符が付いて回るようになるのは時間の問題だったというほかはなかっただろう。仲里氏には酷な物言いになるかもしれないが、有権者の心は離れるべくして離れたというべきで、目取真氏がいうように、政府・自民党の切り崩しによって強引に議員の座から引きずり下ろされたというのは、真実からは遠い話である。

 金秀グループ、かりゆしグループのオール沖縄からの脱退についても、目取真氏がなにを根拠に、政府・自民党による切り崩しによるものだと強弁しているのか、全く理解の範疇を超えるような話である。両グループの脱退は、ただ単に、オール沖縄陣営内部で革新政党の影響力が増してきたことに嫌気が差したということであり、それ以上でもそれ以下の話でもない。

 目取真氏が述べていることは、いずれも幼稚なすり替えである。

 オール沖縄の失速をもたらしたのは、政府・自民党による切り崩しなどでは断じてない。それをもたらしたのは、もともと政治的には寄せ集め集団に過ぎなかった陣営内部の足並みの乱れや、陣営に加わった議員たちの政治的な未熟さや醜い権力欲、そして、参加政党と参加企業の単なる主導権争いなどではないか。

 百歩譲って、政府・自民党による熾烈な切り崩し工作があったとしても、那覇市議会の新風会が醜いポスト争いを演じることがなければ、安慶田副知事が公人としてあるまじき行為をしていなければ、仲里議員が沖縄の民意を代表する国会議員として縦横無尽の活躍をしていれば、そして、オール沖縄会議の内部で円滑な意思疎通が出来てさえいれば、どうなっていただろうか。
 そもそも、政府・自民党にはつけいるスキさえ生じなかったであろう。
 政府・自民党の切り崩し工作の有無にかかわりなく、オール沖縄は自滅したのである。

 目取真氏は、同じ文中で「安倍首相の政治手法は幼稚で劣悪だ」などと息巻いているが、なんでもかんでも「政府・自民党による熾烈な切り崩し」に話をすり替えて、オール沖縄が抱える弱点、欠陥から人々の目をそらそうという目取真氏のやり口の方が、よっぽど「幼稚で劣悪」な「政治手法」というべきである。

 さらにいわせてもらえば、こうしたオール沖縄陣営の迷走は、以前から誰の目にも明らかなものだった。つまり、建設的批判を通じて、それを軌道修正していく機会はいくらでもあったのである。
 しかるに、そうした現実から目を背け、口をつぐんで知らぬ顔をしてきたのは、目取真氏のようなオール沖縄の支持者たちである。声を上げるべき時に声を上げようとせず、みすみすオール沖縄を汚辱にまみれさせたのは、目取真氏たちの罪である。

 それを、いよいよもってオール沖縄の混迷が極まった観が生ずるや、「オール沖縄がこうなったのは、政府・自民党による切り崩しのせいだ」と責任を転嫁するばかりで、これまでのオール沖縄のあり方について省みる態度さえも見せないというのは、一体どういうつもりなのだろうか。目取真氏は、安倍首相の政治手法を云々する以前に、まずはおのれの無責任さを深く恥じ入るべきではないのか。

 それにしても、目取真氏の文章を読み進めながら、こうしたすり替え論法の幼稚さもさることながら、その文章の平板さや紋切り型の表現の連続に、これが芥川賞作家の書いた文章なのか、とやり切れない思いが募った。
 なにも、大江健三郎ばりのことさらに晦渋な文章を書けなどとはいわないが、目取真氏の文章には、読む者をして思わず粛然とさせるような力は全くない。内容の陳腐さといい、表現のレベルといい、なにやら、弱小政党のアジビラでも読まされているような空しい気分になるばかりだ。

 こんなだらしのない文章を書いていて、文学者として恥ずかしくないのだろうか。

Posted by HM at 16:55│Comments(0)
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