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2023年03月15日

大江健三郎氏を冒涜したRBCの追悼ニュース


 RBCのニュース番組で放送された、作家・大江健三郎氏の追悼報道について、そのあまりにもデタラメな報道内容に腹が立った。いくらなんでも失礼ではないかと呆れる思いがした。

 この追悼報道のタイトルは、「『ノーベル賞作家』大江健三郎さん 言葉で戦い続けた生涯と沖縄への思い」(3月14日放送)というものである。

 どういうところがデタラメなのか。たとえば、次のような箇所である。

 レポートの冒頭で、今月3日に亡くなった大江氏について、『沖縄ノート』などの創作活動を通じて沖縄を見つめてきたと紹介した上で、<1992年に放送された、RBCの番組『大江健三郎沖縄を語る』の中で、〔大江氏は〕沖縄への思いをこう表現していました>というナレーションに続いて、以下のような大江健三郎氏の発言が流される。

大江氏「20年前(1972年)に視点を置きまして、自分が20年前の沖縄全体から何を読み取ろうとしたのかもう1回見てみたい。一旦小説家になって、30歳くらいになっている人間が、どのように自分の小説を作り直すか、そういうことを考えてるときに、沖縄で経験したことが有用・大切だったという風に思うわけです」

 一体どういうつもりなのだろうかと当惑するほかはないのだが、この引用部分のどこにも、大江氏の「沖縄への思い」は語られていない。この引用部分のどこをどう叩いても、大江氏の「沖縄への思い」を読み取ることはできない。

 文脈から推測するに、おそらく大江氏は、この引用部分の前か後かで、20年前に自分自身が沖縄全体から何を読み取ろうとしたのかを具体的に振り返りつつ、当時、小説家として分岐点に立っていた自分にとって、沖縄で経験したことがその後どれだけ大きな意味を持つようになったのかを語っているのだろう。

 その肝心な部分を取り上げず、まるで見当違いな他の発言部分を引っ張ってきて、「〔大江氏は〕沖縄への思いをこう表現していました」などと言い募るのは、一体どういう料簡なのだろうか。

 こうしたメチャクチャな発言の引用ぶりからも一目瞭然だが、このレポートをまとめたRBCの番組スタッフは、明らかに手抜きをしている。

 局内に保存されていた大江氏の講演の動画のなかから、大江氏が発した言葉の意味を深く吟味することもなく、なにかもっともらしいことを言っているように感じられた部分を、実に無雑作に切り取って並べているだけである。

 それが証拠に、このレポートの末尾では、ひどい誤報まで犯している。

 レポートの締め括りで、<沖縄の戦後の姿を通して、日本の民主主義のあり方を問うた大江さん。60年あまり、言葉で戦い続けた生涯でした>というナレーションに続いて、大江氏が次のように語っている場面が、何の注釈もなしに放映されてレポートは終わる。

大江さん「地球上で帝国主義が終わりを告げるとき、沖縄人は苦世から解放されて甘世を楽しみ、十分にその個性を生かして世界の文化に貢献することができる」

 このレポートを見ていた視聴者のうち、少なからぬ人々が、この言葉を大江健三郎氏本人のものだと受け取ったのではないだろうか。

 しかし、何を隠そう、この言葉は大江氏のオリジナルのものではない。この言葉は、沖縄学の父として知られる伊波普猷のものなのである。

 より正確にいうと、この一文は、伊波普猷の晩年の著作である『沖縄歴史物語』の掉尾を飾った一節で、伊波が書き残した文章のなかでもよく知られたものだ。

 ところが、RBCのレポートでは、あたかもこの言葉が大江氏自身のものであるかのように扱われているのだ。

 開いた口がふさがらないとはこのことである。よくもこれほどまでにひどいデタラメを放送できるものである。

 RBCのデタラメ編集があまりにもひどいので、どういう流れで伊波普猷に言及したのかはさっぱり分からないが、おそらく大江氏は、伊波普猷の言葉を引用しながら、沖縄に対する思いを語ったのだろう。

 また、大江氏の性格に鑑みても、伊波の言葉を引くに当たって、大江氏がそのことを断りもなしに口にしたということは到底考えられない。必ずや、これは伊波普猷の書いた一文だが、と断りを入れた上で紹介したに違いあるまい。

 当然のことながら、大江氏には大江氏なりの思いや考えがあって、伊波普猷の言葉を引用したはずである。そして、そうした思いのなかには伊波に対する少なからぬ敬意や共感があっただろうということは、想像に難くない。

 だとすれば、自らが引いた伊波普猷の言葉が、あたかも大江氏自身の言葉であるかのように誤って報じられてしまうなどということは、大江氏にとっては、これ以上はないほどに不本意なことであろう。

 さらにいえば、それはただ単に大江氏自身の意に反するというだけにとどまらず、大江氏の「沖縄への思い」を土足で踏みつけるに等しい無神経な態度であるというほかはない。

 このようなデタラメぶりから読み取れるのは、このレポートをまとめた人物は、大江健三郎、伊波普猷の両人について全く無知なのだろうということである。おそらくは、1度も両人の著書を手に取ったこともないのではなかろうか。

 そういう人間がさも分かったような顔をして、大江氏の偉大さを誉めそやす言辞を並べ立てるというのは、紛れもなく、故人に対する冒涜以外の何物でもなかろう。白々しさを通り越して怒りすら覚えるほどである。

 このブログで度々指摘してきたことだが、沖縄のメディアには、事実を正確に報道することへの意識が薄く、自分たちの政治的主張に都合のいいように、恣意的に事実を切り取るという態度が横行している。

 そういう人たちにとっては、大江健三郎氏のような存在さえもが、自らの政治的なキャンペーンにとって好都合な素材でしかないのだろう。

 こういう人たちにとっては、大江氏がどのような人生体験と思考、思念の末に沖縄に思いを寄せるようになったのかなどということは、本当はどうでもよいのだろう。大江文学において沖縄経験がどのように昇華されているのかなどということは、本当はどうでもよいのだろう。

 こういう人たちにとっては、ノーベル文学賞作家という大江氏の肩書の権威だけが欲しいのではないだろうか。ノーベル賞作家が、沖縄の民意に寄り添い、辺野古新基地建設に反対しているという事実だけが欲しいのではないだろうか。

 そうでなければ、これほどまでにいい加減な報道姿勢になるはずがあるまい。

 沖縄のメディアは根深いところで腐敗しているのではないだろうか。

  
Posted by HM at 19:29Comments(0)

2023年02月01日

無知をさらけ出した与那覇恵子氏のお粗末


 与那覇恵子氏については、このブログでこれまで2度程取り上げたことがあるが、この人がまたもや呆れ返るほかはない文章を投稿している。

 1月16日付の琉球新報紙に掲載された「戦争を防ぐ日中平和友好条約順守/県議会の迅速な可決を」という一文で、与那覇氏は、日中平和友好条約の条文を長々と引用した上で、現在の日本の対中姿勢は、同条約違反であるとまことにユニークな主張を展開している。

 与那覇氏の主張をもう少し具体的に紹介すると、

①日本政府は、かつて台湾を中国とする「1つの中国」を公認していたにもかかわらず、台湾有事を想定して戦争準備を進めているのは、日中平和友好条約で定められた、「内政に対する相互不干渉の原則」に違反している。

②日本が米国とともに対中軍事シフトを強化しているのは、同条約の「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えない」という規定に違反しているばかりか、中国に対抗して米国の覇権を確立する行為とも判断できるものなので、「両締約国は、(略)アジア・太平洋地域において(略)覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国(略)による試みにも反対する」と定めた、いわゆる「反覇権条項」にも違反している。

 というものである。

 与那覇氏のこうした主張にはどれほどの正当性があるのだろうか。さっそく検証してみよう。

 まずは①の論点についてだが、与那覇氏の投稿文をちゃんと読んだ人であれば気がついたであろうが、氏が引用している日中平和友好条約の条文のどこにも、台湾が中国領であるということは書かれていない。

 それでは一体、与那覇氏は何を根拠に、日米両国は台湾が中国領であると認めていたはずだ、と唱えているのだろうか。

 与那覇氏は引用から落としているが、日中平和友好条約には前文が置かれていて、同条約は1972年の日中共同声明をベースにして締結されたものであるという趣旨が記されている。そして、日中両国の台湾に関する見解は、この共同声明の中で述べられているのだ。

 それでは、台湾の帰属について、日中共同声明ではどのようなことが宣明されていたのだろうか。1972年の日中共同声明において、両国政府は台湾について次のように述べている。

《3.中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。》

 ここで注目してもらいたいのは、この共同声明の文言では、「日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重」すると記されていることである。決して、「日本国政府は、この中華人民共和国政府の主張承認し、支持する」とは、書かれていないのだ。

 どういうことかというと、共同声明では、台湾について、中国政府と日本政府のそれぞれの主張と立場が併記されているだけで、確固とした共通の意思が表明されている訳ではないのである。

 分かりやすいようにくだけた言い方をすれば、ここで述べられていることは、中国政府が、「台湾は中国の領土の一部です」という従来からの主張を表明したのに対し、日本政府は、「中国政府がそういうお考えであることは分かりました。そのお考えはお考えとして尊重して、敢えて異を唱えるようなことはしません」と返答したということに過ぎないのだ。

 つまり、日本政府は、台湾が中国領の一部であるという中国政府の主張に同意したなどという事実はないのである。そんなことは、日中共同声明にも、日中平和友好条約にも書かれていないのである。

(なお、話がくどくなるので詳しくは触れないが、先程の日中共同声明の引用部分の末尾にポツダム宣言云々の文言があるのも、日本政府はそもそも台湾の帰属について判断する法的立場にはないという含意がある。また、米中交渉においても、米国政府は、台湾は中国領であるとする中国政府の主張を「認識した」と言っているだけで、「承認した」とは言っておらず、中国の主張に同意した訳ではない)

 こうした事実を念頭に置いた上で、与那覇氏の主張の是非を吟味してみよう。

 与那覇氏は、「日米は台湾を中国とする『1つの中国』を公認して」いたにもかかわらず、日米が台湾有事への介入の構えを見せているのは、内政不干渉の原則に反するものだと批判している。

 与那覇氏がいう「公認した」とはどういう意味なのかがすこぶる不明瞭だが、文脈から推し量ると、与那覇氏は、日米両国が台湾は中国領だとする中国の主張を承認したとすっかり思い込んでいるようである。そして、そうした思い込みに基づいて、日米が台湾は中国領だと認めた以上は、台湾問題は中国の内政問題であり、それに日米が介入するのは内政不干渉を定めた条約に違反していると一方的に決めつけている。

 しかし、事実はどうかというと、すでに述べたように、日米両国とも台湾は中国領であると承認してなどいないのだから、与那覇氏の主張は、事実誤認の上に組み立てられた間違った主張なのである。

 要するに、与那覇氏は、日中平和友好条約などというご大層なシロモノを引っ張り出して知ったかぶりをしてみせたまではよかったものの、そこは素人の悲しさで、条約の中身を誤読してナンセンスなことを言っているだけなのである。やたらと知ったかぶりをしたがる人間はいるものだが、与那覇氏の場合、単に知ったかぶりをするだけではなく、わざわざ新聞に投書して世間にデタラメを吐き散らしているのだから、本当に困った人である。

 第2の論点については、あまりにもバカバカしい話なので、ごく簡単にすませてしまうことにしよう。

 与那覇氏によると、「米国は根拠も示さず『台湾有事』を言い始め、日本は尖閣や沖縄を中国が攻めると根拠なき脅威をあおって(略)戦争準備に余念〔が〕ない」そうである。そして、「日本は平和友好条約違反(略)どころか、中国に対する侵略戦争開始国となりかねない」のだそうである。

 わたしが見るところでは、与那覇氏は政治的なレトリックとしてこういうことを言っているのではなく、本気でそう考えているのだと思う。与那覇氏の現実認識の中では、台湾有事の根拠はいままで一度も示されてこなかったし、中国脅威論は根拠もなしに煽られた虚構にしか見えないのである。そして、日米両国が、根拠のない中国脅威論を煽って戦争準備に突き進んでいるのは、中国侵略戦争をしたいからだとしか見えないのである。

 実際にはどうか。台湾有事や中国脅威論については、説得力の強弱はあるにしても、これまで様々な根拠が提示されてきている。また、力による現状変更を意図しているとしか思えない中国の現実のふるまいを見れば、日中平和友好条約で定められた紛争解決手段としての(威嚇を含む)武力の不行使や反覇権条項に違反しているのは、むしろ中国の側ではないかという視点も成り立ち得るほどである。

 しかし、そんなことは与那覇氏には関係ない。見えてはいても見ていないし、聞こえてはいても聞いていないのだから、与那覇氏にとってはそうした事実ははじめから存在しないのと同様なのだ。

 養老孟司氏の『バカの壁』(新潮新書)の中に、まるで与那覇氏のことを念頭に置いて書かれたのではないかと思えるような記述がある。

「自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の『バカの壁』です」

「バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする」

 与那覇氏は、自らが築いた壁の中に閉じこもり、その壁の内側だけが全世界だと固く信じ込んでいる人なのである。壁の向こう側には別の世界があるということが全く分からない人なのである。

 本当に困った人である。




  
Posted by HM at 13:27Comments(0)与那覇恵子

2022年11月28日

共産党県議が言い放った愚劣な言いがかり


 世の中には、真っ当な批判と不当な言いがかりというものがある。真っ当な批判には、しばしば物事を正すという建設的な力があるが、不当な言いがかりには、それを口にした人間の抱く悪意や邪心があるだけで、建設的な意味合いは微塵も含まないという違いがある。

 唐突にこんなことをいうのは、11月18日付の琉球新報に掲載された「記者席」というコラムを読んだからだ。およそ200字ほどの小文だが、これを読むと、言いがかりというものがいかに非建設的で無内容なものであるかが嫌でもよく分かる。

 最初に目を通した時は、よくもこんな愚劣な文章を得々と新聞が掲載するものだと呆れ返る思いがしてならなかったが、何度か読み返すうちに、空疎な言葉を吐き散らすことの空しさをよく示しているという点では、このコラムには反面教師的な意義があるという思いもしてきた。こんなバカげたことを言うような大人になってはいけませんよ、と子供たちに教え諭す材料としてはうってつけかもしれない。

 前口上はほどほどにして本題に入ると、「『だまし』には鋭く」と題されたこのコラムの中身は、11月10日から19日まで行われた日米共同統合演習キーン・ソードに関するものである。短い文章なので全文を引用する。

<日米共同統合演習「キーン・ソード23」の中止要請のため、11日に沖縄防衛局を訪れた西銘純恵県議(共産)。防衛局側が演習を通じて日本の防衛に寄与すると説明したことに対し「キーン・ソードは鋭い剣で、名称が攻撃を意味している。防衛なら『ディフェンス』のはず」と反論した。その後も防衛局の説明には納得がいかず、要請後には「やっていることはだましだ」と憤った。説明と実態の食い違いには、質問も鋭く切り込む構えか>

 いかがだろうか。このコラムの執筆者は、どうやら沖縄防衛局に対する西銘県議の反論に心底共感しているらしい口ぶりだが、ここで紹介されている西銘県議の発言には、わざわざ新聞が紙面をつぶしてまで掲載する程の価値があるといえるだろうか。

 はっきりいって、そんな価値はひとかけらもない。ゼロである。

 これは本当にバカげた言いがかりである。本当にナンセンスな物言いである。

 誰が読んでも分かるように、ここで西銘議員が噛みついているのは、防衛目的だとされる軍事演習の名称が、攻撃的な表現(キーン・ソード=鋭い剣)になっているのは怪しからんということである。本当にそれだけである。

 しかし、それなら、たとえば、演習の名称が、「ディフェンシブ・ソード」とか、「ソード・フォア・ピース」といった“平和的”な表現だったらよかったのだろうか。あるいは、「日米共同統合演習・友愛」とか、「日米共同統合演習・平和が第一」などといった名称であれば、防衛局の説明と実態が一致しているから大変よろしいと、西銘県議は納得されたのだろうか。

 本当にバカも休み休み言ってもらいたいものである。

 この人は、こんな下らないことを言うために、わざわざ沖縄防衛局にまで押しかけたのだろうか。

 防衛局への抗議というパフォーマンスを通じて、西銘県議がアピールしたかったことは大方想像がつく。要するに、「日米合同演習の実態は攻撃的なものであり、いたずらに軍事的緊張を高めかねない危険なものだ。中国に対する軍事的挑発に繋がる演習は即刻中止すべきであり、それを防衛目的だと説明している政府の姿勢は、国民を騙すもので許すことはできない」というものだろう。

 当然のことながら、西銘県議がこのような主張を唱えることは本人の自由である。しかし、これもまた当然のことだが、大の大人が、しかも県議という責任ある立場にある者が、政府の説明を欺瞞だと批判するのであれば、それ相応の説得力のある論拠を示すべきであることも論を待たない。公人による政府への批判は、子供の口喧嘩とは違うのだ。

 ところが、西銘県議の言たるや、防衛が目的なら名称もディフェンスじゃないとおかしい、キーン・ソードは攻撃の意味になるから、政府の説明はウソだという、こまっしゃくれた子供がやらかすような、単なる言葉の揚げ足取りそのものである。子供の口喧嘩そのものである。

 今回の軍事演習の性格が防衛的なものだったのか、あるいは防衛としては過剰な攻撃的なものだったのかは、演習の実質的な中身を検討することによってしか判断の下しようはない。名称など本質的にはどうでもよい話である。日米合同演習の趣旨は防衛目的だとする政府の説明は欺瞞だと、どうしても言い張りたいのであれば、演習の名称にイチャモンをつけるのではなく、演習の具体的な内容を俎上に載せて議論しなければならないはずである。

 こんなことはかなり出来の悪い中学生でも分かる話ではないか。県議会議員を4期も務めている人間がそんなことも分からないのだろうか。

 西銘県議は、「(政府の)やっていることはだましだ」と息巻いたそうだが、そういっている当の本人が、こうした無内容な、子供騙しレベルのことを金切声で叫んでいるだけという有様なのだから、これはもう、悪い冗談というほかはないだろう。

 それにしても、こんな愚昧なことを言い放って得意がっているような人間が、地方議員とはいえ、政治家をやっているのだと思うと、呆れたり腹が立つというレベルを通り越して、本当に悲しくなってくる。日本共産党といえば、日本の政界でも随一の理論家集団として知られたインテリ政党だったはずではないか。その所属議員がこんな幼稚な物言いをして、本当に恥ずかしくないのだろうか。いらぬお節介とは知りながら、これでは共産党のブランド・イメージにも傷がつくのではないかと心配になってくる程である。

 また、腹立ちついでに言い添えると、こんなバカげた発言を臆面もなく言い放つ議員も議員だが、それをまた、「説明と実態の食い違いには、質問も鋭く切り込む構え」などと、臆面もなしに持ち上げている琉球新報の記者の愚劣さも、もはや救いようがない。このコラムを書いた記者の親の顔が見てみたいものである。


  
Posted by HM at 09:50Comments(0)

2022年01月20日

医療崩壊を県民に知らせない玉城県政の欺瞞


 昨日(1月19日)、NHK沖縄支局のニュースを見ながら、腹立たしい思いがしてならなかった。具体的にいうと、「今週も感染増加の見通し 高齢者施設の集団感染に警戒を」と題されたニュースの一節に対して、怒髪天を衝く思いに駆られた。

 ニュースの中身は、県の疫学調査チームが会見を開き、県内の感染拡大は依然として続いていて、今週1週間の感染者数は、1万人から1万5千人にまで達する可能性がある、と公表したことを伝えるものだが、その中で次のような調査チームのコメントが報じられたのだ。

「沖縄県の疫学調査チームは、今週は、本島中南部を中心に感染者の増加が続く見通しだと分析していて、高齢者に感染が広がった場合は、新型コロナ患者用の病床がひっ迫する可能性があると指摘しています」

 腹が立って仕方がなかったのは、「高齢者に感染が広がった場合は、新型コロナ患者用の病床がひっ迫する可能性がある」という部分である。なにをバカなことを言っているのだと思った。

 全く冗談ではない。「病床がひっ迫する可能性がある」とは、なんという言い草だろうか。県の疫学調査チームに属する人々は、足下で進行している現実を知らないのだろうか。現状は、そんな生温い表現で言い表せるようなレベルをとっくに超えてしまっている。

 実際のところ、県内の医療体制の現状はどうなっているのかというと、一言でいえば、惨憺たる有様である。

 同日のQAB(琉球朝日放送)の報道によると、1月18日時点で、入院患者数は367人になっていて、新型コロナ患者用の病床の使用率はすでに73.7パーセントにまでなっている(病床総数=498床)。

 まずは病床使用率の急上昇が目につくが、それ以上に深刻なのが、入院調整中の陽性者の数である。その人数は、なんと1853人にもなるというのだ。

 つまり、病床数で空きがあるのはわずかに131床に過ぎないが、その14倍を上回る人数の人々(!)が、入院の必要があると判断され、病床が空くのを待っている状態だというのである。

 さらにいえば、宿泊療養、自宅療養を行っている陽性者が、それぞれ305人、8837人もいる。宿泊施設と自宅で療養中の陽性者の合計人数から、入院調整中の陽性者の数を引くと、7289人になる。この7289人の中からも、今後、症状が悪化して入院の必要があると判断される人々が出てくるはずである。

 かてて加えて、県内の新規感染者の増加にもブレーキがかかっていない状態が続いている。今後も1日当たり千人台の新規感染者が出ることが予想されるが、その新たな感染者の中からも入院が必要な人々が出てくるはずなのだ。

 要するに、現時点ですでに病床が圧倒的に足りない状態になっている一方で、入院が必要なコロナ患者の数はさらに雪ダルマ式に増えていく趨勢にある。

 はっきりいって、県内の医療体制はすでに崩壊状態にあるのだ。入院が必要な多数の人々を入院させられないばかりか、その大半の人々に自宅療養を強いているというのが、いまの県内の医療体制の実態なのである。

 話を県の疫学調査チームの会見にもどすと、まともなオツムを持っている人間であれば、このような状況を指して、「病床がひっ迫する可能性がある」などという言葉は、どこをどう叩いても、出てこないはずである。

 この疫学調査チームの言動にも象徴的に表れているが、玉城デニー知事以下、県当局者が口にする言葉に耳を傾けてみると、この人たちは本当に目の前の現実を理解できているのだろうか、と疑いたくなることがしばしばある。目の前の現実を見ようとしていないのではないか、と疑いたくなることがしばしばある。

 いま、県の当局者が本当にやるべきなのは、「このままでは病床がひっ迫する可能性がある」などと見当違いな警告を発することではない。そんな段階はとっくに過ぎてしまっているのだ。

 いま、彼らがやるべきなのは、まずは、全ての県民に対し、医療体制が崩壊状態にあることを告知することである。その上で、これ以上の感染拡大を阻止するために、全県民が感染予防に全力で取り組むように要請することである。

 そして、県当局自らがやるべきことを全力で取り組まなければならない。まずはとにかく病床を増やすことである。それが無理だというなら、酸素吸入センターを大増設することであり、宿泊療養のための施設を大幅に増やすことである。保健所の職員を増員することであり、PCR検査用の試薬をかき集めることである。やるべきことははっきりしている。やらなければならないことははっきりしているのだ。

 それなのに、なぜ、県当局は医療崩壊の実態を県民に告げようとしないのだろうか。やるべきことははっきりしているのに、なぜ、県当局の動きはこれほどまでに鈍重なのだろうか。

 諸悪の根源はどこにあるのか。その答えははっきりしている。県行政の頭である玉城知事が、医療崩壊の実態を県民に知らせようとしていないからである。一向に主体的に動こうとしていないからである。

 トップが真実を公言しない態度を取るようになれば、組織全体にも口をつぐむ空気が広まるのは避けられないことだ。トップの動きが鈍重であれば、組織全体の動きも鈍重になるのは当然のことだ。

 それではなぜ、玉城知事は医療崩壊の現実を県民に告知しようとしないのか。

 ここからは推測になるが、玉城知事の念頭にあるのは名護市長選への影響だろう。

 選挙情勢に関する各種報道によると、現職の渡久地候補に対し、オール沖縄陣営が擁立した新人の岸本候補が追い上げているとされている。そして、いわゆる無党派層では、岸本候補への支持率が、渡久地候補への支持率を上回っているといわれている。

 このような選挙戦の最中、医療体制がすでに崩壊し、感染拡大にも歯止めがかかっていないなどと県当局が声高にアナウンスすれば、一体どうなるだろうか。市長選の投票率は確実に下がり、それはまた、無党派層の支持を頼りとする岸本陣営へのダメージとなる可能性が高いだろう。名護市長選の結果を自らの再選戦略にもつなげたい玉城知事としては、同市長選の投票率を下げるようなこと、特に無党派層の人々の足を投票所から遠のかせるようなことは、いまは絶対にしたくないはずである。

 いま述べたことが単なる邪推であることを切に望むが、もしも不幸にしてこの推測が正しければ、玉城知事は、名護市長選が終わるまでは、県内の医療崩壊の現実を県民に告知することには消極的な態度を取り続けるに違いない。県の当局者たちもまた、実質的には医療体制はすでに崩壊しているにもかかわらず、「このままでは、病床がひっ迫する可能性がある」などと、ジョージ・オーウェル的な言葉遣いを続けるに違いない。

 もしも玉城知事が、県民の生命よりも自らの政治生命にかかわる政治的打算の方を優先させているとすれば、これ以上の県民に対する背信行為はあるまい。万死に値する罪というほかはない。

  
Posted by HM at 12:00Comments(0)新型コロナ玉城デニー

2021年11月30日

沖縄タイムス論説記者が書いた真っ赤なウソ


 ウソも100回繰り返せば真実になると傲然と言い放ったのは、ナチス・ドイツの宣伝相だったヨーゼフ・ゲッペルスである。

 よもや、プロパガンディストとして悪名高いゲッペルスの弁に倣った訳でもないだろうが、タチの悪いプロパガンダもどきの文章が、沖縄タイムス紙に掲載されているのを目にして、沖縄の新聞人のレベルもとうとうこれほどまでに落ちぶれたのかと、天を仰ぎたくなった。

 その文章とは、11月26日付の沖縄タイムス紙1面に掲載されたコラム「大弦小弦」である。執筆したのは同紙の論説委員である与儀武秀記者だ。

 このコラムの主旨は、米軍普天間飛行場に所属する輸送機オスプレイが、市街地上空を飛行中に金属製の水筒を落下させた事故をはじめ、米軍機による事故が相次いでいることへの懸念を述べた上で、25年前に日米両政府が合意した普天間飛行場の危険性除去を一刻も早く実現すべきだというものだが、そのなかで与儀記者は次のように書いている。

「街のど真ん中にある普天間飛行場。日米両政府が全面返還に合意して25年がたつが、現状は今日まで変わらない。速やかな運用停止を求める県に対し、政府は辺野古移設が『唯一の解決策』と強調し続ける」

「水筒落下を受けて、近所の住民は『移設しても辺野古で同じことが起こる。だから県民は基地をなくせと言っているのに』と話している。25年前の合意は『全面返還』であり『新基地建設』ではなかったはずだ」

「玉城デニー知事は新基地建設に伴う埋め立ての設計変更を不承認とした。『1日も早い危険性の除去とは、その基地を使わないということだ』と述べた。県民の声を無視し新基地建設に固執すれば、危険性の除去は遠のく」

 このコラムを一読してわたしは本当に驚いた。そして、呆れ返るほかはない文章だと思った。

 呆れ返るほかないというのは、与儀記者が、25年前に成立した日米両政府の合意は、普天間飛行場の全面返還であり、普天間飛行場の代替基地の建設は含まれていなかったはずだ、とヌケヌケと書いていることである。つまり、与儀記者にいわせると、政府が辺野古移設を断念し、普天間飛行場を即時全面返還することが、25年前の日米合意に即した対応になるはずだ、というのだ。

 全く冗談ではない。新聞の論説委員を務める人間が、これほどまでにあからさまなウソをよくも吐けるものである。よくもこんなデタラメを公然と新聞に書けるものである。

 25年前の日米合意とは何だったのかというと、それは、代替基地の県内移設を前提条件とした普天間飛行場の全面返還だったのである。「25年前の合意は『全面返還』であり『新基地建設』ではなかった」などという事実はないのだ。正しくは、「25年前の合意は『新基地建設』を前提条件とした『全面返還』だった」のだ。

 よく考えてもらいたい。もしも、25年前の日米合意が、与儀記者が書いているように、普天間飛行場の「『全面返還』であり『新基地建設』ではなかった」ならば、この問題は、とっくの昔に一件落着となっていたはずではないか。

 なぜ、普天間飛行場の返還が、日米合意から25年が経過している現在も膠着状態が続いているのかといえば、普天間飛行場の県内移設が返還の前提条件になっているからである。

 この県内移設という条件に反発したからこそ、25年前、当時の大田昌秀知事は、日米合意の受け容れを断固として拒絶し、それ以降、県内移設を前提とする普天間返還を目指す政府と、県内移設なき普天間返還を求める沖縄県との間で、政治的な対立が続いてきたのだ。逆にいえば、日米両政府が無条件での普天間返還に合意していたのであれば、どうしていまだに普天間返還が実現できていないのか、まるで説明がつかないではないか。

 こんなことは、わざわざ指摘するまでもなく、与儀記者のようなベテラン記者であれば、百も承知のはずである。しかるに、こうした事実を誰よりも認識しているはずのベテラン記者が、「25年前の合意は『全面返還』であり『新基地建設』ではなかったはずだ」などと、平気で事実に反することを新聞に書いてしまうのはなぜなのだろうか。

 あまりいいたくはないが、いくら考えてみても、与儀記者が、事実に反していることを知りながら、「25年前の合意は『全面返還』であり『新基地建設』ではなかったはずだ」と強弁しているとしか思えない。

 与儀記者には、日米合意当時のことを知らない若い世代の人々を新基地建設反対の方向に誘導しようという邪な底意がって、そのために、「25年前の合意は『全面返還』であり『新基地建設』ではなかった」と、事実を歪曲して書いているのではないだろうか。  まさかとは思いつつも、そう邪推したくなるほどに、与儀記者のコラムにはある種の不可解さが強く付きまとっている。

 もしも、わたしの邪推が正しければ、与儀記者その人はもとより、沖縄タイムス紙についても、報道メディアとしては死んだも同然というほかはあるまい。






  
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2021年10月30日

琉球新報さん、ドフトエスキーって誰ですか?


 これは本当に恥ずかしい話である。

 10月27日付の琉球新報紙は、文化面に「大城立裕氏追悼シンポジウム詳報 (上)基調講演」という記事を掲載している。

 記事の内容は、沖縄の文学界を牽引してきた作家・大城立裕氏の没後1年を目前に控えて開催された大城氏の追悼シンポジウムについて、作家の又吉栄喜さん、前名桜大学学長の山里勝己さん、沖縄国際大学准教授の村上陽子さんら3人による、大城文学を考察した基調講演を伝えるものである。

 この記事を読んだ人はみんな、びっくりして目を剝くような思いがしたに違いない。それというのも、記事で最初に紹介されている又吉栄喜さんの講演の記述中に、いきなり、とんでもない間違いが出てくるからだ。

 又吉さんは冒頭、作家としての大城立裕をどう論じるべきか頭を悩ませたが、大城作品と別の作家の作品を対比することで、自分なりの文学観などを示せるのでないかと思う、と講演の口火を切っているのだが、琉球新報の記事によると、それに続けて又吉さんが次のように語ったことになっている。

「トルストイはシェークスピアを批判し、ドフトエスキーはチェーホフをけなしたという話もあるが、小説の価値は多種多様だ」

 この「ドフトエスキー」とは、いうまでもなく、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』などの作品で知られるロシアの作家、ドストエフスキーのことだろう。それがなぜか、ドストエフスキーの最初の「ス」の字が「フ」に変身し、エフスキーの「フ」の字が抜け落ちて、「ドフトエスキー」という腑抜けな名前になっちまっているのだ。

 これではまさしく、「ギョエテとはオレのことかとゲーテ問い」を地で行くようなものだが、又吉栄喜さんがこんなバカな言い間違いをするはずがないから、これはどう考えても、粗忽な琉球新報の記者が誤って書いたことに違いあるまい。

 しかしまあ、いくらなんでも、これはあまりにもひどすぎるのではないだろうか。よりにもよって文化面で、しかも、よりにもよってドストエフスキーの名前を誤記してしまうとは、新聞として、これ以上はないほどに恥ずかしいことではないか。

 それにしても、どうしてこんな間抜けな間違いが起きてしまったのだろうか。

 まさか、この記事を書いた記者が、ドストエフスキーのことを全く知らなかったなどということはないだろう(いくらなんでも、そう信じたい)から、単純なキーボードの打ち損じによる誤記入なのだろう。

 しかし、そうなると今度は次のような疑問が湧いてくる。

 記事を執筆した記者本人はもとより、文化面を担当するデスク、校閲部の担当記者、印刷前の最終チェックをする担当者など、少なくとも、3、4人の人間がこの原稿に目を通していると思われるのだが、その誰もこれほどひどい記入ミスに気がつかなかったのだろうか。

 これらのうちの1人でもいいから、「ドフトエスキー」という珍妙な表記に気がついていれば、それがそのまま、堂々と紙面に掲載されてしまうなどということは避けられたはずである。

 つまり、琉球新報では、まともな記事内容のチェック機能がまるで働いていない、ということだ。

 このブログでも、琉球新報の記事にはひどいデタラメがまま見られることは、度々指摘してきたが、とうとう、こんな低レベルな間違いをやらかしてしまうところまで、琉球新報の劣化は進んでしまったということなのだろう。病膏肓に入るとはこのことだ。

 こんなことを長々とグチっていると、そんなことは単なる不注意に属することではないか、重要な点で誤りがあるという訳ではないのだから、大したことではあるまい、という人もいるだろう。

 しかし、こういう基本的なところで実につまらない間違いをしでかしている文章というものは、はっきりいって、その先をさらに読み進めようという意欲がなくなるものである。そして、書き手のレベルにも信頼が置けなくなるものである。

 たとえば、大高未貴という無名の右派系女性ライターが書いた『強欲チャンプル 沖縄の真実』という本がある。沖縄の人なら誰でもすぐに気がつくことだが、タイトルにある「チャンプル」とは、チャンプルーのことである。わたしなどはこれだけでもうダメで、チャンプルーのこともちゃんと表記できないような人間が、聞きかじりの粗雑な知識だけを頼りに、沖縄のことをいい加減に書き飛ばしているのだろうと、ウンザリした気分になってしまうのだ。もちろん、そんな本を手に取ろうなどという気持ちにもなるはずがない。

 また、以前、ネット上で、当時の翁長知事の名前にわざわざ「おきな」と間違った振り仮名をふっている書き込みを目にしたこともある。こちらの書き込みは、翁長知事の主張に賛同し、支持する内容のものだったが、その執筆者が熱っぽく翁長知事を誉めそやせば誉めそやすほど、それよりも、沖縄について知ったふうな口を利く前に、まずは知事の名前を正しく読めるようになるのが先だろ、と白々とする思いが募ったものである。

 思い出しついでにさらに書くと、もう6年ほど前の話だが、QAB(琉球朝日放送)についても、ニュース番組の中で放送された沖縄戦に関連する特集で、映像に付されたナレーションが、終戦直後に外務大臣に就任した重光葵の名前を、何度も「しげみつ・あおい」と間違えていたことに、がっくりと肩が落ちる思いがした(正しくは「しげみつ・まもる」)。

 重光葵は、戦前・戦後を通じて何度も外務大臣に就任した著名な人物で、昭和史をきちんと学んでいる人間であれば、名前を読み間違えることはまずない。それにそもそも、人名辞典などにちゃんと当たっていたら、こんなバカみたいな言い間違いは絶対にするはずがないのである。

 つまり、このナレーションの原稿を書いた記者も、それを読んだアナウンサーも、昭和史について全く無知だということ、そして、キー・パーソンの名前の読み方さえもろくに調べていないということが、はしなくも暴露されてしまったのである。

 前回も述べたことだが、沖縄のメディアには、一方では、呆れ返るぐらいに基本的な事実関係をちゃらんぽらんに扱いながら、他方では、妙に肩をいからせて読者や視聴者に説教がましい態度を取るという悪癖がある。

 つまり、政治的なキャンペーンにばかり地道をあげているものだから、報道メディアの命綱であるはずの正確な事実の報道が疎かになっているのである。

 しかし、いやしくも報道メディアを名乗るものが、そんな本末転倒な在り様を続けていていいはずがない。正確な事実の報道を蔑ろにするようなものには、そもそも報道メディアを名乗る資格がない。

 著名な外相の名前を平気で言い間違えるようなテレビ局が、さも訳知り顔で、沖縄戦の記憶を風化させず、歴史の教訓を正しく引き継いでいかなければなりませんなどと、説教がましい口上を述べたり、ドストエフスキーのことを「ドフトエスキー」などと誤記してしまうような新聞が、いっぱしのクオリティ・ペーパーを気取ったりするのは、もう本当にやめてもらいたいものである。そういう態度をとるのは、せめて、人の名前を正しく読めるようになってから、正しく書けるようになってからにしてもらいたいものである。

 何度でも繰り返すが、報道メディアにとっての命綱は事実を正確に伝えることにある。それを忘れたメディアには明日はない。















  
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2021年10月13日

琉球新報の姑息な印象操作 「遺骨土砂要望書に全国から返信」の欺瞞


 10月1日付の琉球新報紙に掲載された「遺骨土砂 意見書可決も/具志堅氏要望書/全国議会から返信」という記事を一読して、琉球新報よ、懲りもせずにまだこんなことをするのかと、ため息が出る思いがしてならなかった。

 記事の内容は、ガマフヤーの通称で知られる沖縄戦戦没者の遺骨収集ボランティアの代表、具志堅隆松氏が、名護市辺野古での新基地建設の埋立工事に沖縄本島南部の土砂を利用することについて、これらの土砂には沖縄戦戦没者の遺骨が含入している可能性があり、遺骨を軍事基地の建設に用いるのは死者を冒涜する「人道上の問題」だとして、全国の県議会・市町村議会に向けて、日本政府に土砂の使用の断念を求める意見書の可決を要望してきたことに対し、各地の地方議会から返答が届き始めている、というものである。

 ため息が出る思いがするというのは、この記事全体の体裁が、沖縄の地元メディアの常套手段である印象操作によって成り立っているからだ。

 記事の見出しだけを見ていると、あたかも、具志堅氏の訴えが実を結んで、全国の県議会・市町村議会が、土砂の使用断念を求める決議を続々と可決しているかのような印象を受けるだろう。記事の見出しにザっと目を通すだけで、本文は読まずにすませてしまった読者がいたら、その人はまず間違いなしにそのように誤解してしまったに違いない。

 しかし、実際にはどうかというと、記事の本文を仔細に読んでみると、見出しから受ける印象とはまるで話が違うのである。

 たとえば、具志堅氏が意見書の可決を求める要望書を発送したのは、全国1743の県議会・市町村議会だということだが、実際のところ、要望書に対する返信がどれだけあったのかを見てみよう。

 記事の見出しには、「全国議会から返信」と、あたかも返信が続々と殺到しているかの如く打たれているが、記事本文を読んでみると、「9月29日時点で100通ほどの返信があった」だけだというのである。発送した要望書に対して、1割にも満たない返信しか届いていないというのだ。

 しかも、返信数の少なさもさることながら、それ以上に驚かされるのは、およそ100通ある返信の具体的な中身である。琉球新報の記事によると、「多くの議会は要望書の議長預かりや議員配布にとどまっている」というのだ。

 つまり、何のことはない、具志堅氏が出した要望書に対して、大多数の県議会・市町村議会は、いまだに返事も寄越していないということである。そればかりか、返答を寄越した議会の大半も、ご要望の趣旨は承りました、という程度の儀礼的な反応にとどまっているだけで、いまのところ、要望書に呼応する具体的な動きはほとんど見られていないということである。

 このような状況を指して、「全国議会から返信」などと見出しに打ってしまう琉球新報の感覚が、わたしには全く理解できない。この実情の一体どこに「全国議会から返信」などと表現できるような事実があるのだろうか。繰り返すが、実際に届いている返信は全体の1割にも達していないのである。

 読めば読むほど、記事の見出しと本文から受ける印象があまりにもかけ離れていることに面喰ってしまうほかはないが、それではどうして、琉球新報は読者をことさらに混乱させるような紙面づくりをしているのだろうか。

 ここからは推測を含んだ分析になるが、要するに、琉球新報は、全国の各地方議会に対する具志堅氏の呼びかけが、当初の期待に反して、見るべき成果を挙げ得ていないという現実を、読者の目から少しでも隠しておきたいのだろう。

 それどころか、事実とは正反対に、あたかも具志堅氏の訴えが功を奏し、南部土砂の使用中止を求める動きが県外で澎湃として高まっているかのように読者に思わせたいのだろう。

 それではなぜ、現実にまるでそぐわない誇大な見出しを付けるという姑息な手段に訴えることをしてまで、読者をそのように誘導しなければならないのか。わたしにいわせれば理由は明快である。

 はっきりいって、ガマフヤーこと具志堅隆松氏の言動が、沖縄県民の間からさえも、さほどの共感・支持を得られていないからだ。

 具志堅氏は、南部土砂の使用中止を求めて2度もハンガー・ストライキを決行するなど、これまでも様々なパフォーマンスを行ってきた。しかし、それに対して、沖縄県民の間に支持の動きが広まっているかといえば、そのような空気は全く見られない。むしろ、具志堅氏のひどく説教がましい態度が災いしてのことだろうが、少なからぬ沖縄県民の反感を買っている気配さえも窺えるほどである。

 その結果、南部土砂の使用中止を求める気運は、地元メディアと一部の市民団体、県政与党を構成する党派を除けば、明らかに盛り上がりに欠けている。太鼓持ちよろしくメディアがしきりに具志堅氏のことを持ち上げて、いくら笛を吹いても、沖縄県民は一向に踊ろうとはしていないのである。頼みの綱であるはずの玉城知事でさえもが、行政手続き上の難しさもあって、県が許認可権を発動して土砂の使用をとめることには消極的な態度を取り続けている。

 そもそも、具志堅氏が全国の地方議会に要望書を送るというパフォーマンスをやりだしたのも、正直なところ、県内からの反応が思いのほか冷ややかなので、働きかける対象を県内から県外に切り替えたというだけの話である。

 つまり、身もフタもない言い方をすれば、具志堅氏の活動は手詰まり状態に陥っているのである。

 この記事にわざわざ読者をミスリードする見出しを付けた人物は、具志堅氏の呼びかけに応じて、全国津々浦々から土砂使用中止を求める声が続々とあがりはじめている、という印象を読者に与えることで、地元でも空回りしている具志堅氏の運動をテコ入れしようと考えたのだろう。

 これはまさしく、沖縄のメディアの宿痾ともいうべきキャンペーン・ジャーナリズム体質の通弊を如実に示したものである。客観的な事実の報道よりも、政治的なキャンペーンを優先する姿勢は、報道メディアとしては邪道だというほかはない。以前も指摘したことだが、沖縄メディアにまま見られる、このような体質(自分たちの主張に都合のいいように事実を操作することを一向に躊躇わない)については、直ちに改めるべきである。


【追記】

 この記事にはほかにもおかしなところがある。

 この記事には、「遺骨土砂 意見書可決も」という見出しが付けられていて、それだけを読んでいると、意見書を可決した議会がポツポツ出ているようにも読める。

 だが、記事の本文に目を通してみると、「この要望書により、沖縄で起きている問題を地元に引きつけて考える議会も出ている」として記事の中で挙げられているのは、わずかに、北海道の占冠(しむかっぷ)村議会だけなのである。

 普通、占冠村議会以外にも意見書を可決した議会があれば、「占冠村以外にも意見書を可決した議会が〇〇カ所ある」とか、「占冠村のほかにも、〇〇県、〇〇市、〇〇町の各議会が同様に意見書を可決している」といった文章が続くはずだが、そうした類の一文は記事のどこにも見当たらない。

 ほかの議会については全く言及がないので、もしかすると意見書を可決したのは占冠村議会だけなのだろうかと思った(それならそれで、「現時点で決議を可決しているのは同村議会だけだが」といった一文を付すべき)のだが、調べてみると事実はそうではない。

 たとえば、9月15日には倉吉市議会(鳥取県)と大阪市議会が、同30日には堺市議会が、それぞれ意見書の採択を可決している。堺市議会の意見書可決については、琉球新報の記事が掲載された前日のことなので、単純に記事に盛り込むことができなかったのかもしれないが、倉吉市議会や大阪市議会の決議について記事の中で一言も触れられていないのは、どうにも解せない話である。

 具志堅氏の要望に応じて意見書を可決した議会が全国にどれだけあるのかは、読者にとっては大いに気になるところだが、この記事は、その肝心な点についてなにも教えてくれないのである。

 呆れ返るほどのこの不親切さの理由は何なのだろうか。おそらくは、この記事を書いた記者が手抜きをしたのだろう。占冠村議会以外に意見書を可決した地方議会がいくつあるのか、きちんと調べることをサボったに違いない。そしてそれをごまかすために、ほかにも意見書を可決した議会があるのかないのか、読者にはさっぱり分からないような曖昧な書き方をわざとしたのだろう。

 全く勘弁してもらいたいものである。バカげた印象操作といい、読者がいちばん知りたいであろうことをきちんと調べもしない態度といい、これではマジメに記事を読んでいる読者こそ、いい面の皮ではないか。

 こんなひどい記事を読者に読ませて、琉球新報の記者たちは本当に恥ずかしくはないのだろうか。こんなことをいつまでも続けていると、いずれ、読者から見放される日が来ることを覚悟すべきだろう。






  
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2021年08月19日

緊急事態宣言延長に噛みついた沖縄県のバカ幹部


 8月17日付の沖縄タイムス紙に掲載された「宣言延長『寝耳に水』/政府から連絡なし 戸惑う県」という記事を読んで、心の底から呆れ返る思いがした。そして、沖縄はもうダメだ、という思いに駆られた。

 タイムス紙の記事のあらましは次のようなものである。

「政府は、沖縄県などの緊急事態宣言を9月12日まで延長する方針を固めた。ただ、県へ事前の連絡はなく、幹部は『寝耳に水だ』と不快感を示す。県は17日のコロナ対策本部会議で新たな対処方針を決める予定だが、対策の想定は31日まで。9月以降の具体策は『全くの白紙』(幹部)で、緊急事態の恒常化に苦慮している」 

 この記事をさらに読み進めていくと、政府が宣言延長の方針を固めたという報道に接した玉城デニー知事が、「全く連絡がない。政府に確認する」というばかりで、中身のあるコメントを発することもできない有様だったことや、寝耳に水だと不快感を露わにした某県幹部が、「唐突に9月以降の話をされても対応が追い付かない」、「せめて事前に方針を伝えてくれれば、県庁内の議論ともかみ合うのに」と不平タラタラだった一方で、「打てるタマ(対策)はもう、出し尽くした」と狼狽気味の様子だったことなどが書かれていて、今回の政府による宣言延長の決定に、県の当局者がほとんど茫然自失となっている実情がよく伝わってくる。

 それにしても、読めば読むほどに腹が立ってくる話ではないか。

 何に腹が立つかというと、宣言延長の報にオロオロしているだけの玉城知事の無能ぶりも腹立たしい限りだが、それ以上に腹が立つのは、宣言延長の決定に「寝耳に水だ」と逆ギレしている県幹部の一連の発言である。

 この県幹部にいわせると、政府からは緊急事態宣言を延長するという話は来ていなかったので、県としては、今月末で宣言は解除されるだろうと考え、宣言延長の準備は何もしていなかった、そのため、宣言延長に伴う対処方針をこれから決めなければならない、というのである。そして、宣言を延長するのなら、政府はなぜ、もっと早く知らせてくれなかったのか、と非難がましい言葉を並べ立てているのである。

 この「県幹部」というのは正真正銘のバカなのだろうか。

 いまの現実を見れば、今月末で緊急事態宣言が解除される可能性は万にひとつもないことは、小学生でも分かることではないか。

 現下の状況は、連日、新規感染者数が最多記録を更新し続け、患者を収容する病床は逼迫しており、あろうことか、県自身が、肺炎症状が出ている中等症患者でさえも入院できない状態なので、自宅療養中に肺炎が悪化しないための姿勢の取り方をアドバイスしているという異常事態である。しかも、感染拡大のペースが鈍る気配は、現在のところ、微塵もないという状態なのだ。

 このような状況で、今月末(つまりはあと半月足らず)までの間に、緊急事態宣言を解除できるぐらいに感染状況が改善されるなどということは、誰が考えても無理だと分かるはずである。

 事実、タイムス紙の同じ記事に登場する別の県幹部は、「仮に今から陽性者が減っても、医療体制の逼迫は少なくとも9月上旬まで続く。延長はやむなしだ」とコメントしている。これがリアルな状況認識であろう。

 ところが、この県幹部にはそんなことも分からないらしいのだ。小学生でも見て取れることが全く見て取れないらしいのだ。

 なんというバカなのだろうか。これほどバカな人間が県の幹部という重責を担っていて本当にいいのだろうか。

 しかも、沖縄県民として恥ずかしくなるのは、この県幹部が、「唐突に9月以降の話をされても対応が追い付かない」とか、「打てるタマ(対策)はもう、出し尽くした」とか、ひたすら逃げ口上ばかりを口にする一方で、言外に、政府が緊急事態宣言を延長するというのであれば、それに伴う対処方針やらなにやらについても、政府の方でどうにかしてくれという態度が、ありありと見て取れることである。

 この県幹部には、行政を担う人間としてのプライドというものがないのだろうか。県の幹部といえば、辺野古移設をめぐって、沖縄県は政府の言いなりにはならないとか、自己決定権がどうしたなどと大言壮語している人間が少なくないようである。この幹部も、普段はそうした大口を叩いている手合いに違いないが、コロナ対策のような困難な事態に直面するや否や、日頃の威勢のよい口吻もどこへやら、たちまち政府に責任を丸投げしようとしているのである。こんな自主性のかけらもないような態度を平気で取り始めるのである。

 言いも言ったりというほかはないが、「唐突に9月以降の話をされても対応が追い付かない」とは、全くなんという言い草であろうか。県幹部ともあろう者がよくもこれほどまでに無責任なことがいえたものである。そもそも、もう間もなく9月に入ろうというのに、9月以降のコロナ対策の具体的な対処方針が「全くの白紙」だというのがおかしいのである。県はやるべきことをやっていなかったということではないか。

 また、「打てるタマ(対策)はもう、出し尽くした」とは何事か。よくもこれほど恥知らずにも自らが無能であることを公言できるものである。要するに、大勢の県民の命が脅威にさらされているにもかかわらず、この県幹部は、「残念ですが、私たちとしてはやれることは全部やったので、もう後は知りません」といっているのである。

 全く冗談ではない。「打てるタマは出し尽くした」などとはとんでもない話で、実際には、県がやるべきことで手を付けていないことはいくらでもある。やれることで手を付けていないことはいくらでもある。この県幹部をはじめとする県当局者の最大の問題は、自分たちがやれること、やらなければならないことがいまだに分かっていない、ということである。

 無能・愚鈍の極みという意味では、玉城知事だけでもう十分にウンザリさせられてきたが、この県幹部の無能・愚鈍ぶりもまた、知事のそれに匹敵して余りある。

 こんな無能な幹部は即刻更迭すべきだ。








  
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2021年08月06日

与那覇恵子さん、お気を確かに!


 世の中には本当に困った人たちがいるものである。手の付けられない人たちがいるものである。

 与那覇恵子という投書マニアの女性については、前にも言及したことがある(「日本語になっていない琉球新報の論壇記事」)が、この人はその後も懲りずに呆れ返るようなことを新聞に投書し続けている。

 たとえば、8月2日付の琉球新報紙に掲載された「対立あおる日本政府/悪化する日中関係」という投稿文を読んでみると、この人が、客観的な事実関係などまるでお構いなしに、ほとんど妄想に近い一方的な思い込みだけで日本政府を批判していることに、呆れるのを通り越してほとほとウンザリさせられる。

 与那覇氏がどんなことを書いているのかというと、「中国脅威を作り、あおり続けるのは日本政府という事実」を知らなければ、沖縄県民は自らの命を守ることもできなくなるのだそうである。

 それはなぜか。尖閣諸島の国有化後、安倍・菅政権は、中国に対するバッシングを強め、日中関係の険悪化に拍車をかけている。特に尖閣諸島をめぐっては、政府は、中国の海警局の動向を誇大に発信し、中国脅威論を煽り立ててている。このままでは、日中間の戦争も避けられなくなるだろうが、そうなれば、沖縄は戦争の前線基地にされて、再び犠牲を強いられることになるだろう、というのだ。

 与那覇氏はさらに続けて、尖閣に対する中国脅威論の実態は、石垣市議会議員や右翼団体が所有する漁船が、尖閣海域で中国海警局を挑発した結果、中国側が対応せざるを得ないように仕向けたものにほかならない、中国の脅威が盛んに喧伝されてきたが、日本の漁船が中国側に拿捕された事案が1件もないという事実は、実際に危機を煽っているのは日本側だということを示すものだ、というのである。

 どうやら与那覇氏は、いわゆる中国脅威論は虚構だと言い張りたいようで、その具体的な根拠として、尖閣近海での中国の脅威が強調されているが、実際には何も起きていないではないか、日本の漁船は一度も拿捕されていないではないか、といいたいらしい。

 これは現実を全く見ていない誤った認識である。

 この人は愚かにも、何も起きていないことと、何も起きないようにしていることを混同しているのである。

 与那覇氏のいうとおり、たしかに日本の漁船が中国公船に拿捕されるという事態は「起きていない」。

 しかしそれは、日本側が何も手を打たなくても、自然にそうなっているという訳ではない。現実はどうなっているのかというと、海上保安庁を中心とする関係機関が警戒・監視を続けているからこそ、つまりは、「何も起きないようにしている」からこそ、日本漁船の拿捕という事態は「起きていない」のである。

 しかも、漁船拿捕という事態は起きていないものの、現状は決して楽観視できるようなものではない。数年前から、尖閣近海では、中国海警局の艦船が日本の漁船に接近する動きを頻繁に見せるようになっており、その度に、海保の艦艇が間に割って入る形でトラブルを未然に防いでいるというのが実情である。

 それなのに、与那覇氏の手にかかると、このような現実もハナから無視されて、「〔中国脅威論には〕事実や根拠がない」とか、「中国脅威を作り、あおり続けるのは日本政府」などという話になってしまうのである。本当にどうしようもない人である。

 また、さらに読み進めていくと、何も起きていないことと何も起きないようにすることの区別がつかない与那覇氏は、法案が可決されたばかりの土地利用規制法についても、「米軍や自衛隊基地周辺の中国人の土地買い上げがないにもかかわらず、(略)安全保障上重要な土地を買い上げる外国人の脅威を防ぐとして法を可決した」のは、「事実や根拠がないにもかかわらずあるがごとく見せる」政府のいつものやり口だ、本当の狙いは沖縄県民を取り締まろうとしているのだと、まるで見当違いな批判を唱えている。

 先程の尖閣をめぐる現状認識といい、この土地利用規制法に対する言いがかりといい、この人の思考回路は一体どうなっているのだろうか。

 土地利用規制法の立法目的は、問題が起きてから対応するのでは手遅れになるから、あらかじめ予防的に一部の土地取引を規制しようというものである。それなのに、この人は、バカのひとつ覚えのように、そんなことは実際には起きていないのに、なぜ、そんなことをしなければならないのか、と呪文のように繰り返すばかりなのだ。どうしてこれほど話がかみ合わないのか、いくら考えてみても、私には理由がさっぱり分からない。もしかすると、この人のアタマの中には、予防という概念がはじめから無いのだろうか。

 与那覇氏の論法にしたがうと、犯罪が起きていないうちは警察はいらないし、火事が起きていないうちは消防も要らないことになる。ガードマンも火災報知器も不要ということになる。こういうものは、どれもこれも、犯罪が起きてから、火事が起きてから用意すればよいということになってしまう。

 あまりにもバカバカしい話である。

 しかし、与那覇氏の文章を読んでいて心底ウンザリさせられるのは、この人が、かなりレベルの低い陰謀史観に骨の髄までとらわれてしまっているらしいことだ。

 与那覇氏はこう書いている。

「安倍・菅政権で目に付き始めたのは、(略)米国代理の日中戦争前線基地とするための列島要塞化だ」

「島中で激しさを増す米軍機飛行、米国政策の代理戦争準備に自公政権が動く。加担する沖縄の政治家は自身の命をどう守るのか? 日米は沖縄の限定戦争で利を得たい」

 論理の飛躍がやたらと目に付く悪文だが、要するに、この人にいわせると、米国政府は戦争が利益になると考えていて、中国との戦争をしたがっているというのだ。自公政権も沖縄の保守系政治家も、その米国の走狗となり果てて、戦場を沖縄だけに限定する日中戦争の勃発を目論んでいるというのだ。

 これは本当に驚くべき見解である。

 一体、米政府の誰が戦争を望んでいるのか。大統領か、国防総省か、それとも議会か。「日米は沖縄の限定戦争で利を得たい」というが、そもそも、戦争で得られる利とは具体的に何を指しているのか。イラクやアフガンから手を引いたばかりの米国が、それ以上の人的犠牲を覚悟しなければならない中国との戦争に本当に踏み切れるのか。日米両政府は、沖縄だけを戦場とする限定戦争を画策しているというが、実際の戦争をそんなに都合よくコントロールできるものなのか。あるいは、日米両政府が限定戦争の枠内で対中戦争を戦えると想定しているという確たる情報でもあるのか。

 次から次へと疑問点が湧いてくるが、これらの疑問を与那覇氏にいくらぶつけてみても、おそらくはムダであろう。この手の陰謀論にはまってしまう人々というのは、情報の確実性や根拠などということには一向に頓着しないと相場が決まっているからだ。与那覇氏のような人には、世界はこういう風にしか見えないのである。

 本当に困った人である。手の付けられない人である。






  
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2021年06月08日

女性チョウ類研究者を県警が家宅捜索の奇々怪々


 6月6日付の沖縄タイムス紙の社会面の片隅に奇妙な記事が掲載されている。

 チョウ類の研究者である宮城秋乃氏の自宅に沖縄県警が家宅捜索に入った、というのである。

 ご本人の詳しい経歴などは存じ上げないが、宮城氏は、野生のチョウ類の研究・観察にいそしむ傍ら、米軍北部訓練場から一部が返還された地域でのフィールドワークを通じて、旧訓練場エリア内での米軍による環境破壊の深刻さに心を痛め、抗議の声を上げ続けている人物である。その活動は県内のメディアでもしばしば取り上げられているので、県内ではちょっとした有名人といったところだろうか。

 そんな人がなぜ警察の強制捜査を受けたのだろうかと不思議に思えてならなかったが、タイムス紙の記事(「県警が宮城さん宅捜索/米軍廃棄物に抗議 威力業務妨害疑い」)はことの経緯を次のように報じている。

「東村高江の米軍北部訓練場のメインゲートで米軍車両や軍雇用員らの通行を妨害したとして、威力業務妨害の疑いで県警が4日午前、チョウ類研究者の宮城秋乃さん(42)の自宅を家宅捜索したことが分かった。(略)

 宮城さんによると、捜査員ら約10人が東村の自宅内や倉庫を約1時間半かけて捜索。車や書籍類などの写真を撮影して、タブレット端末やパソコン、ビデオカメラなどを押収したという。

 宮城さんは捜査員から、4月7日に米軍基地との境界を示すイエローラインの内側に廃棄物を置き、通行を妨害したことによる家宅捜索と説明を受けた。またこれまでに北部訓練場の返還地で回収した米軍の廃棄物をゲート前に置いたことなどに対しても『今後捜査する』と言われたという」

 この記事には、宮城氏のブログから転載された画像(訓練場ゲート前の路上に廃棄物が放置されている)が添えられ、加藤裕弁護士の「宮城さんの行動は『威力〔業務妨害〕』とは言い難く、保護されるべき政治的表現の自由の1つ。県警の捜査は過剰で政府に反対するような運動を抑制しようとする行為だと言わざるを得ない」というコメントが付されている。

 この記事を読んでまず最初に思ったのは、宮城氏のふるまいはいささか非常識ではあるが、威力業務妨害容疑で強制捜査を受けるほどのことではあるまい、県警は少しやり過ぎではないか、ということだった。加藤弁護士の表現の自由云々についてはバカげたナンセンスだとしか思えなかったが、今回の強制捜査は過剰なものではないかという指摘には一理あるように思われた。

 ところがその後、背景事情をもっと詳しく知りたいと思って、宮城氏自身のブログに目を通してみたのだが、そこに書かれていることに愕然とさせられた。宮城氏が米軍や県警とトラブルを起こしているトラブルメーカーであることが分かったからだ。そして、なるほど、こんなことを繰り返していたのなら、警察としても何らかの対応をしなければならないと判断したのも無理はない、と思うようになった。警察が強制捜査に踏み切ったのも一概にやり過ぎとはいえないな、と思うようになった。

 たとえば、県警が家宅捜索に入る直前の5月28日の宮城氏のブログには、次のようなことが書かれている(なお、強調は引用者による)。

〈27日15時、安波ダムの駐車場に米軍の大型車両が10台ほど止まっているのを見つけました。

 これらの車がダム駐車場から北部訓練場N1ゲートの方向に出ようとしたので自分の車から降りて進行を止めようとしました。

 しかしこの米兵〔画像が添付されている〕に押さえこまれ進行を止めることがまったくできませんでした。(略)

 これらの車両の荷台は空でした。訓練場内にいる米兵を迎えにいくのだとわかりました。(略)米軍がやんばるでスムーズに訓練をおこなえない環境を何度も作るために米軍車両の進行の妨害をしようと考えました。

 車列のあとを追いかけると、(略)県道70号線で一度すべての車が停車しました。車から降りて前のほうの様子を見にいくと少なくとも2台が対向車線に出ていました。

 このときも何台目かの車両の前に立って進行を阻止しようとしましたがすぐにさっきの米兵に持ち上げられて道の脇に押さえこまれてしまい1分も止めることができませんでした。

 N1ゲート近くまで来ると、すでに最後列の1台以外はN1ゲートに入ってしまいましたが、1台は前の車両が入り終わるのを待つために停車していたのでワタシがそれを右側から追い越して(略)その車両の前にいったん停めました。しかし、停めた場所が前すぎてワタシの車の後ろから入られてしまいました。(略)

 荷台が空の大型車両がぞくぞくとやってきますが、おまわりさんらに阻止されて長時間止めることはできませんでした。(略)

 19時前、荷台に米兵を乗せた約10台の米軍車両がゲートから出てきて北に向かいました。昼間見て安波ダムの駐車場に行くとわかっていたので追いかけました。

 19時過ぎ、安波ダムの駐車場でターンして出る方向で停車していた米軍車両の前、駐車場内に車を停めました。昼の経験から車を降りて体で止めるのは失敗することがわかっていたからです。(略)

 米軍車両は車間距離をつめて停まっていたので、2台目以降も横から出ていくことができません。(略)ワゴン車だけなら出られそうですが、動きませんでした。

 20時頃、パトカーが来ました。

 しばらくするともう一台来ました。

 ワタシの車の前をおきわりさんにふさがれてしまい、米軍車両がワタシの車の前から駐車場出口を出ようとしたので、車を降りて米軍車両の進行方向にあるもう一方の出口に走って米軍車両を止めようとしましたがおまわりさんの足のほうが早く米軍車両に追いつく前に止められてしまいました。

 20時半頃にはすべての米軍車両が去っていきました。米軍車両を1時間半ほどしか止めることができませんでした

 これを読んで唖然としない人はいないのではないだろうか。この人はこんなことをやっていたのである。

 宮城氏の心中を忖度すれば、日々、米軍による環境破壊の惨状に心を痛めながら、いまも我がもの顔で行動する米軍の姿を目にして、腸が煮えくり返る想いなのだろう。その心情は理解できなくはない。

 しかし、だからといって、宮城氏がブログに書き込んでいるような妨害行為(誰の目にも明白な不法行為である)が正当化される訳ではない。それにそもそも、このような行為をいくら積み重ねたところで、基地問題の根本的な解決には全く繋がらないばかりか、宮城氏はいたずらに自分で自分の首を絞めるような結果を招いているようにも思えてならない(氏のブログによると、米軍車両を停めるために中央車線を超えて追い抜いたことが違反行為と見なされ、警察から違反切符を切られたとある。今後もこんなことを続けていけば、いずれ免停処分になるのではないか。そうなって誰の得になるというのだろうか)。

 開いた口がふさがらないとはこのことだが、宮城氏に限らず、基地反対運動に取り組んでいる人々の一部には、基地反対という大義名分さえあれば、多少の法律違反は許されてしかるべきだという非常識な態度がまま見られる。そうした風潮を助長しているのが、地元メディアや法曹関係者たちの無責任な姿勢であることは間違いない。

 事実、今回の宮城氏の件についても、沖縄タイムス、琉球新報(タイムス紙よりも2日遅れて記事にしている)の両紙にせよ、加藤弁護士にせよ、宮城氏のこうした行為に見て見ぬふりを決め込んでいるのは、どうにも釈然としないところである。宮城氏の肩を持つのは結構だが、県警の捜査をあれこれとあげつらう前に、強制捜査という事態を招いた宮城氏の度が過ぎたふるまいについて、まずは一言たしなめるべきではなかっただろうか。






  
Posted by HM at 15:17Comments(0)