2020年01月14日

愚劣極まる琉球新報「首里城再建」連載記事①


 琉球新報紙に昨年の11月9日から掲載されていた「首里城再建 識者の見方」という連載記事を読んで、あまりの愚劣さに気分が悪くなった。本当にこれはひどいと思った。

 この記事の触れ込みは、焼失した首里城の再建の意義や方向性を識者に語ってもらうというものだが、そこに登場した6人の「識者」たちが交互にまくしたてていたのは、空疎な精神主義的アジテーションか、問題を浅薄な政治的イシューにすり替えたものばかりで、本当の意味で首里城再建に資するようなものは、ただのひとつもなかった。首里城再建について真剣に考えようとしている読者をバカにしているとしか思えなかった。

 それがどれほどひどいものだったのか、これから詳しく紹介してみよう。

 連載の第1回目に登場したのは、比屋根照夫・琉球大学名誉教授である。同氏は、「民衆の城取り戻す事業に/国は戦争の贖罪意識必要」と題されたインタビュー記事の冒頭で、「再建の主体が県か国になるかは首里城再建を巡る根本的なテーマだ」と述べておられる。

 ところがどうしたものか、比屋根氏は、自らが立てた「根本的なテーマ」をそっちのけにして、安倍政権が翁長雄志・前知事が当選してから5ヵ月も会ってくれなかったことを持ち出し、「あれほど〔翁長知事に〕冷淡だった国が〔再建に〕前のめりになっていることに〔県民は〕深い関心を寄せるべきだ。ただ賛美しているだけでいいのか」と、安倍政権に対する(私には言いがかりとしか思えない)批判と、政府の再建表明に愁眉を開いた県民世論に対する(これもまた言いがかりに等しい)不満を、一方的にまくしたて始めるのである。

 どうやら比屋根氏は、首里城再建が国中心で進められることがお気に召さないようなのだが、国有財産である首里城の再建を国が中心になって行うのは、当然すぎるほど当然のことである。そこに唐突に、「再建の主体が県か国になるかは(略)根本的なテーマだ」などと言い出す比屋根氏の真意が、私にはまったく分からない。

 比屋根氏が、首里城を国有財産から県有財産に移管し、再建事業も県の事業として行うべきだというのであれば、話はまだいくらか分かるのだが、氏は首里城を県有財産に移せとは一言も口にしておらず、首里城が国有財産とされていることには別段異議はないらしい。

 しかし、そうなると当然のことながら、国有財産の再建事業を、所有者である国ではなく地方自治体が中心になってやることの法律面、行政面での整合性をどのように確保するのかという疑問が湧いてくるのだが、比屋根氏はそうした問題には一切頓着せずに、バカのひとつ覚えのように、再建は県が主体になってやるべきだ、と繰り返すだけなのである。これでは論理もヘッタクレもあったものではない。

 比屋根氏はさらに続けて、「無謀な戦争で多くの琉球王国の貴重な財産、精神的支柱と言うべき遺産が無残に破壊された。国はそれに対する贖罪意識を持って再建事業に参加すべきだ」と、国の戦争責任を持ちだして、首里城再建は県が主体になって行うべきだという持論を展開されている。

 しかし、これもまた理解に苦しむような物言いである。どうやら比屋根氏の頭のなかでは、今回の首里城焼失と沖縄戦が一直線に結びついているらしいのだが、今回の火災と沖縄戦の惨害との間には何の関係もない。それを強引に結びつけ、先の大戦で首里城が灰燼に帰したのは国の責任なのだから、今回の焼失についても国は再建に協力する義務があるなどというのは、支離滅裂というほかはない言動である。

 また、当惑を通り越して唖然とせざるを得ないのは、比屋根氏が、沖縄戦で首里城を破壊した国の戦争責任を糾弾し、「国は(略)贖罪意識を持って再建事業に参加すべきだ」と唱えている一方で、同じ記事のなかで、「あの文化空間〔=首里城〕を政治の力学で左右することは決してあってはならない」などと、ヌケヌケと言い放っていることである。

 だが、首里城再建を県と国のどちらの主導で行うべきかを論じている時に、それと直接的には無関係な「国の戦争責任」という政治問題を持ち出し、“国には戦争責任があるのだから、国は主導権を県に譲るべきだ、金は出しても余計な口出しはするな”と言わんばかりの比屋根氏の主張こそ、まさしく、再建事業の主導権を「政治の力学で左右」しようとする悪しき態度そのものである。

 しかるに、これほどあからさまに政治的な主張を展開している当のご本人が、その舌の根も乾かないうちに、首里城再建問題は政治の力学で左右してはならないなどと、説教がましい態度で能書きを垂れるのだから、まことに恐れ入ったものである。

 このような矛盾したことを平気で口にするというのは、言論人として失格というべきだろう。要するに、きちんと想を練らずにその場限りの思いつきのレベルで発言しているから、こういうことになるのである。

 しかし、それ以上にひどいと感じられるのは以下の一連の発言である。

「重要なのは、県の主体性と文化政策を明確に国に提示しながら、県の気概と姿勢を示していくことだ」

「〔玉城知事の政府への再建協力要請は〕首里城に関わる哲学の視点を入れて、県民の英知を結集し、沖縄の再建案ができた段階でもよかったのではないか」

「沖縄民衆の持つ想像力〔※ これは文脈から推して「創造力」の誤記だろう〕や県民の自力を基盤として、県民の再建への参加を呼び掛けなければならない。この数日間、世界から支援が寄せられている。その善意に応えるには県民の首里城再建への参加しかない。(略)急ぐ必要はない。熟慮して復帰運動の失敗を繰り返さない決意を込めて、民衆の城を取り戻す大事業に取り組むべきだ」

 これらの発言を読んで、その意味がお分かりになるだろうか。比屋根氏がなにやらご自分の言葉に酔っておられるような気配だけは察せられるが、何度読み返してみても、氏がなにを言いたいのか、私にはさっぱり分からない。

 比屋根氏が口にしている《県の主体性》、《県の気概》、《首里城に関わる哲学》、《県民の英知》といった言葉が、ことごとく抽象的で、具体的なイメージがちっとも浮かんでこないものばかりなのだから、分からないのも当然である。

 たとえば、比屋根氏がいう「県民の首里城再建への参加」とは、一体どういう意味なのだろうか。

 まさか、一般の県民も再建作業に「参加」して、材木にカンナを掛けたり、赤瓦を葺いたりして、大工仕事のマネをしろといいたい訳ではあるまいが、いくら考えてみても、どんなことをすれば県民が首里城再建に参加したことになるのか、まるで分からない。

 首里城再建への県民参加といえば、誰でも思いつくのは再建資金の献金だろうが、わざわざ「沖縄民衆の持つ創造力(略)を基盤として」などと大仰な表現を用いていることからすると、比屋根氏が考えておられるのは、なにかもっと大きなことであるらしい。

 しかし、どんなに想像力をたくましくしても、比屋根氏のコメントから読み取れるのはせいぜいそのぐらいまでで、結局のところ、なにが言いたいのかはまるで意味不明である。

 さらに意味不明なのは、「復帰運動の失敗を繰り返さない決意を込めて、民衆の城を取り戻す大事業に取り組むべき」という発言だ。

 首里城再建をいかに進めるかを議論しているところに、どうして、「復帰運動の失敗を繰り返さない決意」などという言葉が出てくるのだろうか。首里城の再建と復帰運動の失敗とやらには、一体どんな関係があるというのか。これもまた、いくら考えてみても、意味がさっぱり分からない。

 つまり、比屋根氏の発言のどこもかしこも、やたらと厳めしい言い回しが並んではいるが、いざ内容を吟味してみると、まるで意味をなさないものばかりなのである。

 全く呆れ返ってしまうほかはない。

 よく居酒屋などで元気のいいオッサンが、アルコールのせいで感情ばかりが高ぶって、論理的にものをいうことができなくなっている姿を目にすることがあるが、比屋根氏の発言はほとんどそれと同類のものである。感情的な物言いを除くと、意味のある部分がほとんどなくなってしまうのだ。

 これが本物の酔っ払いの放言ならば聞き流しておけばよいだけの話だが、いやしくも琉球大学名誉教授という肩書きを持った人物の口からこんなことを聞かされては、なんだか悲しくなるばかりである。

 識者なら識者らしく、もっと地に足のついた議論をしてもらいたいものだ。首里城再建に県民が参加すべきだというならば、どのような参加の方法があり得るのか、そのヒントになるぐらいのことは考えてから発言してもらいたい。それを考えるのが識者の役割というものではないか。

 それができないのであれば、はじめから取材など受けなければよいのである。

愚劣極まる琉球新報「首里城再建」連載記事①

Posted by HM at 14:30│Comments(0)
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